二代目高田釜吉と高田商会の破綻2016/09/15 06:47

 大正5(1916)年の長者番付で、高田愼蔵は2千万円という大資産家になっ ていた。 七男五女、湯島に大邸宅があった、ジョサイア・コンドルの設計で 京都大学にその設計図が残っているというから、現存の岩崎邸のような邸宅だ ったのだろう。 後継者だが、男子は夭折した者が多く、七男軍三はまだ幼か ったので、万由子さんの曽祖母、次女雪子に田中釜吉というハンサムな婿養子 を迎える。 明治9(1876)年生れ、横浜の糸屋で、株で大儲けをした田中平 八の五男。 父・平八は、墨田区木母寺に伊藤博文筆「天下之糸平」の碑があ る人物。 釜吉は16歳でベルリンの王立工科大学に留学し、機械工学を学ん だ。 19世紀末のことで、東洋人を馬鹿にした教師と決闘することになり、18 メートル離れてピストルで撃ち合う。 腕に負傷したが、相手に重傷を負わせ、 以後、尊敬を受ける。

 高田商会は、三井物産、大倉組と並ぶ、商社のビッグ・スリーとなっていた。  丸ノ内に自社ビルを建て、愼蔵は大正元(1912)年、36歳の釜吉に経営を譲 る。 ここで商社史研究家の中川清さんが登場して、その後の高田商会につい て語った。 二代目の釜吉は、機械工学を修めた優秀な人物ではあったが、つ ぎつぎに新事業を始め、大寺亜鉛製造所など製造業へも進出した。 インフラ 整備にも関わり、大森駅近くの柱には「高田商会」の名のある資材の一部が残 っている。 娘の愛子(万由子さんの祖母)が生れ、ドイツ語も教えたという。  多角化で手を広げ過ぎ、釜吉の方針に反対する社員の大量の退社もあった。 そ こに大正11(1922)年、ワシントン軍縮会議があり、軍艦を始めとする軍事需 要が大幅に減少した。 さらに大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発 生、高田商会本社ビルは崩壊、多くの関係施設も被災する。 大正14(1925) 年2月、ついに経営破綻する。 高田商会は、世の中の流れに乗り切れなかっ たのだ。

 釜吉は、実家の田中家の営む田中鉱業で働き、60歳過ぎまで各地の鉱山を回 っていたという。 高田本家の孫、祐一さん(44)は、狩猟や釣りなどいろい ろのことを釜吉に教わったそうだ。 釜吉は昭和32(1957)年、81歳で亡く なった。

 高田万由子さんは現在、夫の葉加瀬太郎さんの音楽活動のため、二人のお子 さんとロンドン在住。 ロンドンのビショップスゲート通り88番地にあった 高田商会の支店の場所へ行き、「シティの真ん中」なのに驚いていた。 16歳 でスイスに留学し、東大で西洋史を学んだが、高田愼蔵と高田商会の歴史は、 ほとんど知らなかったようで、背負いきれない大きな家系と話していた。 

 ネットで検索したら、番組に出てきた中川清さんの論文「明治・大正期にお ける兵器商社高田商会」(白鴎大学『白鴎法学』創刊号・1994年)があった。

 私は、三菱と関係のあった高田商会の破綻と、三菱商事への流れがあったの ではないか、と考えた。 三菱商事は大正7(1918)年4月、三菱合資営業部 が分離独立して設立されている。 釜吉の方針に反対して退社した社員が、三 菱商事に移ったことはあったかもしれない。 そのへんのことをご存知の方は、 教えてほしい。