大村益次郎の上野戦争2016/10/04 06:31

 『知恵泉』大村益次郎の二回目、「上野を制圧せよ!幕末の天才軍師 大村益 次郎」、「組織のパフォーマンスを引き出すには?」 慶應4(1868)年3月勝 海舟と西郷隆盛の会談で、江戸開城が決まった。 しかし、それに不満な彰義 隊始め幕府方各藩の武士たちは、上野の山に結集、3千以上といわれた。 彰 義隊は江戸市中に跋扈し、新政府軍の兵士と衝突して、殺傷事件も起きる。 新 政府軍は司令官の西郷を更迭、新司令官を大村益次郎とし、大村は4月21日 に江戸城に到着した。 大村はまず、彰義隊に対して夜襲をかけるという作戦 を却下する。 その理由は(1)敵の拠点を絞り切れない、(2)火災の可能性、 (3)バラバラの新政府軍(中心は薩長だったが、互いに最悪の関係だった)。

 大村益次郎の知恵、その一「集中する時間を区切れ」。 まず「5月15日、 上野の山の賊徒を征伐する」という布告を出した。 敵を上野の山に集める。  相手に10日ほどの、自らを見つめる時間を与えた。 それで逃げ出す者も出 て、数は1千人足らずに減った。 一日だけなら、新政府軍も内部の喧嘩をや めて、協力するかということになる。 士気を高めた。 さらに、江戸城にあ った骨董品、美術品を売却して資金をつくり、アームストロング砲など新兵器 を配備した。 上野の山は、20メートルほどの台地だ。 作戦はまず、表門の 黒門口に突撃して、士気を一気にくじく。 背後からも突入して、挟み撃ちに する。 内部の彰義隊士が、行き場を失ったところで、不忍池の対岸からアー ムストロング砲を打ち込む。 三方向から連携攻撃された彰義隊士は、わざと 兵力を配備しなかった北東へ敗走するはずだという作戦だ。

 大村益次郎の知恵、その二「キーマンを見極めろ!」。 大村は作戦を一人で つくり、ただ一人、薩摩隊のトップ西郷隆盛だけに明かした。 黒門口に突撃 するのは、最強の薩摩の部隊だ、と。 情に厚い性格の西郷は、「薩摩の兵を皆 殺しにするおつもりか」と言い、大村は「その通り」。 席を外した西郷は、薩 摩を始め新政府軍の連中に言った「大村に、私を一番難しい所に出してくれと 申しておきました」。

 5月15日午前7時、薩摩隊が黒門口への攻撃を開始した。 激戦となったが、 昼過ぎに黒門口を突破、背後からは長州が攻撃した。 そして不忍池の対岸か ら、佐賀がアームストロング砲を打ち込んだ。 彰義隊は開いていた北東へ逃 げ、上野の戦争は、わずか一日で新政府軍の勝利に終わった。 7月、江戸は 「東京」に改められる。

 上野公園の西郷隆盛の銅像に近いところに、彰義隊の墓がある。 扉には○ に義の字が見える。 当初は逆賊ということでつくれず、小さな墓石が地中に 埋めてあったという。 黒門は、荒川区南千住(当初は三ノ輪)の円通寺に移 築されており、多数の弾痕が激戦を物語っていた。 この寺には彰義隊士の墓 もある。 上野の山に逆賊だからと散乱放置された彰義隊士の遺体を、仏磨和 尚が「死んだら官も賊もない」と供養していて、大村益次郎は「ねんごろに供 養すべし」と言ったという。

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