堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』2016/10/15 06:40

 もう10年も前になる。 <小人閑居日記>の2006年2月22日から28日 まで、高崎在住の友人、堤克政さんが新聞に連載した「ちょんまげ時代の高崎」 の話を書いた。 後輩なので、その時は堤克政君と書いたが、彼は「高崎城主 大河内家の家老等を務めた堤家の十三代目」「頼政神社氏子総代」なのであった。  その時に書いたのは、「高崎城主御家老の十三代目」「高崎の殿様たち」「駿河大 納言事件」「大河内家と、その家老・堤家」「余談『柳生十兵衛七番勝負』」「徳 川幕府初期の政権争いと高崎」「野火止の平林寺・松平源朝臣墓」だった。

 その堤克政さんの新聞連載は2009年7月に『ちょんまげ時代の高崎』(あさ を社)という本になったが、昨年、今度は明治時代の高崎について、『ざんぎり 頭の高崎』(あさを社)が刊行された。 前著刊行の際、江戸期の高崎以上に明 治時代が知られていないことを痛感したからだという。 関東有数の“商都城 下町”を形成した江戸時代が、今日の高崎の“生みの親”なら、そこで培われ た町人の経済力が、積極的に鉄道誘致を図り、5路線の発着点となり、街道は 引き続き主要な国道や県道として整備され、関東と信越をつなぐ流通拠点性が 増し、高崎の繁栄が続くことになる明治時代は、高崎の“育ての親”となった。  堤家に残る文書、写真、書籍を使って、その姿を描き出し、とても面白かった。

 堤克政さんの曾祖父・堤金之亟(以下、敬称略)は、高崎藩が幕命で水戸天 狗党を追討し、戦った元治元(1864)年11月16日の下仁田戦役で討死した。  その長男、祖父・寛敏が記録魔で、いろいろの文書を残している。 明治4(1871) 年、新政府は「散髪脱刀令」を出した。 俗に「断髪令」と呼ばれたため強制 策のように思われているが、「散髪脱刀勝手たるべし」と、自由にして良いとい う布告で、髷を結っていても罰せられる事ではなかった。 武士や公卿を中心 に抵抗感があり、なかなか浸透しなかったが、発布二年後に明治天皇が範を示 されたことで普及していく。 高崎では、時の殿様大河内輝聲(てるな)が率 先して髷を切り、はさみを隠し持ち家臣の髷を切るため追い回したとの逸話が 伝わっている。 堤さんの祖父・寛敏も、藩知事となった殿様が組織した洋式 軍隊の銃卒という立場上、直ぐに髷を切り総髪になった。 しかし、両刀を束 ねた羽織袴姿で写真に納まっているその若い写真が、表紙になっている。 こ の祖父、明治8(1875)年には赤坂町小学校教員になり、後に茂木銀行に勤め た。 “武士の魂”の刀が、正式に禁止されたのは、いわゆる「廃刀令」が布 告された西南戦争前年の明治9(1876)年のことだった。