楫取素彦県令の食言で県都争奪騒動2016/10/17 06:18

長州藩出身の楫取素彦=小田村伊之助のことは、昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』 で、くわしく知った。 吉田松陰の妹、杉文は最初久坂玄瑞と結婚するが、久 坂の死後、明治になって妻寿(文の姉)に死なれた楫取素彦と再婚したのだっ た。

 堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』に戻る。 楫取素彦は、足柄県(神奈川 県)参事、熊谷県権令から県令を経て、明治9(1876)年に群馬県が熊谷県か ら分離独立すると群馬県令になった。 楫取は、下村善太郎との会談後に、仮 県庁として前橋城を使いたい伺い書を政府に提出した。 これを知った高崎は、 寄付金を集めて庁舎を増築したいと上申書を出した。 しかし、仮庁舎を前橋 に置く県の布達が出された。 高崎住民総代は、楫取に直談判し、政府が出し た県庁を高崎に置くという布告を数日で変えてしまう理由を質し、抗議した。  楫取は、「前橋へは一時的に移すので、作業が終われば高崎に庁舎を新築し戻す」 と約束したので、抗議は一旦鎮静化した。

 ところが楫取は県庁を前橋に置く伺い書を政府に提出し、明治14(1881) 年、県庁所在地を高崎から前橋へ改める太政官布告が発せられてしまう。 高 崎住民は激怒し交渉するが、「約束したことはない」「県庁の位置決定は政府管 轄である」との官僚的回答。 業を煮やした数千人が腰弁当に徒歩で前橋に向 い、宿泊し早朝から県庁に押し掛けたが、楫取には会えず、役人も総代の資格 がないと交渉を拒否した。 何度も押し掛けたが、楫取はとうとう会わなかっ た。 ついに騒動は裁判沙汰になったが、県庁の位置問題を総代の認知問題に すり替えられ、高崎住民は敗訴し、県庁は戻らなかった。 これが高崎と前橋 の確執の素となった。

 西南戦争が終わると、薩長藩閥政治への批判から自由民権運動が高まる。 高 崎でも高崎藩士族を中心に、明治12(1879)年4月に「有信社」が結成され、 社長に宮部襄、副社長に長坂八郎が就任した。 「有信社」は、明治13年、 中央の国会期成同盟に呼応し国会開設請願運動のために結成された「上毛有志 会」の最も有力な支柱となった。 宮部襄は高崎藩重臣の家に生れ、下仁田戦 争に従軍、維新後は藩政改革派の中心として活躍、県庁に勤務した後、明治13 年、師範学校長となる。 有信社を辞して民権運動に邁進し、自由党創立に尽 力して幹事となる。 同党決死派の先頭に立ち福島事件・群馬事件・秩父事件 に関与。 密偵殺害事件教唆の嫌疑で収監。 明治37年の衆議院議員選挙に 当選し政友会に所属し活躍した。 維新による政治体制の変化で人生が大きく 変わって宮部や長坂が、自由民権運動の猛者として敢然と政府に立ち向かった のは、元高崎藩士の薩長藩閥政治にたいする反骨心からだったろうか、と堤克 政さんは書いている。