市民が支えた明治高崎の発展2016/10/20 06:32

 『ざんぎり頭の高崎』に戻って、明治高崎の発展の様子を見てみよう。 そ れは、ミドルクラスの活躍が地方を支えることが、日本全体の近代化につなが るという福沢諭吉の主張が実現された姿でもある。 市制・町村制が明治22 (1889)年に施行され、40の市が誕生したが、高崎は人口が2万1千人強で、 3千人ほど足りず、市にならなかった。 明治33(1900)年に高崎1市だけ が市になった。 鉄道と道路の交流拠点の商都として発 展したのが評価されたのである。 高崎の初代市長は矢島八郎である。 伝馬 問屋年寄役の長男に生れ、明治6(1873)年に高崎中牛馬会社(牛馬を使った 運送会社)を設立し、高崎・東京間を夜通し走る郵便馬車を始めた。 明治17 (1884)年に上野からの鉄道が高崎まで延長になると、私財をなげうって広大 な土地を駅の用地として寄付し鉄道開業に尽力した。 それに報いるため駅周 辺の地名を「矢島町」とする意見を、矢島が固辞したため「八島町」になった と伝わる。

高崎商業会議所は、明治20(1887)年に設立された高崎商工会を母体とし て、明治28(1895)年に群馬県では最初に設立された(前橋より3年早く)。  主力メンバーの業種は、染絹商生糸仲買、呉服太物商など繊維関係が約4割、 次が食品関係で砂糖乾物商、米穀商、塩魚荒物商、魚牛肉商、その他の業種で は荒物商、紙商、材木商、薬種商、両替商、さらに新しく洋服縫製業が加わっ ている。 新聞その他の発行業者や娯楽営業は除外され、宿場町から鉄道の町 へと発展し人々が行き交う町なのに、なぜか旅宿業や料理屋が会員に選出され ていない。

 初代市長矢島八郎の大きな功績の一つに上水道創設がある。 鳥川の碓井郡 里見村の春日堰に取水口を造り、剣崎の丘陵に導流して貯水池・濾過池を設け、 土地の高低差を利用した自然流下により高崎市内に給水する方法が採用された。  当時の人口の兵営を合せ約3万5千人に対し、計画給水人口を5万人に設定、 3か年の歳月と57万円余りの巨費が投ぜられた。 薬品を使わず、原水を何層 もの砂利層の間をゆったりとした速度(20時間)で濾過する緩速濾過方式にし たので、美味しい水道水が得られ、今日までも衛生基準を満たしているという。  堤さんは子供の頃に、酒のことなど知らないのに、水道水を「剣崎正宗」とか 「鉄管ビール」と呼んでいたそうだ。

 明治26(1893)年に、高崎八島町から渋川長塚町の間に群馬馬車鉄道が 開通。 明治41(1908)年に高崎水力電気(明治38(1905)年設立)に合併 され、伊香保電気軌道に転換、開業した。 高崎より3年前に開業した前橋電 気軌道と接続し、総延長約48キロの地方都市間を結ぶ電気鉄道としては屈指 の長さを持つ路線となった。 文明開化の高崎の街と、田園地帯の群馬町から 温泉保養地伊香保を結ぶ足でもあった。 渋川まで80分弱で走り、店蔵や洋 館が立ち並ぶ商都高崎の街中を通り抜ける「ガタ電」の雄姿は、町の人気者だ ったという。