たった11年で、漱石はあれだけ書いた2016/10/28 06:18

 夏目漱石が『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載を開始して作家とな るのは、明治38(1905)年38歳の時である。 慶應3年1月5日(1867年2 月9日)生れの漱石は、年齢が明治と同じになる(正岡子規も同じ)。 亡く なったのが大正5(1916)年12月9日、49歳だから、たったの11年間に、 あれだけのものを書いた。 これには、改めて驚く。

 39歳、『坊っちやん』『草枕』『二百十日』。 40歳、『野分』『虞美人草』。 41 歳、『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』。 42歳、『永日小品』『それから』『満 韓ところ\゛/』。 43歳、『門』『思ひ出す事など』。 45歳、『彼岸過迄』『行 人』。 47歳、『心』。 48歳、『硝子戸の中』『道草』。 49歳、『明暗』。

 44歳に何もないのは、前年明治43(1910)年6月~7月、胃潰瘍のため長 与胃腸病院に入院、8月いわゆる「修善寺の大患」があり、10月~翌年2月ま で長与胃腸病院に入院したためだ。 明治43年2月に誕生した五女・ひな子 が、明治44年11月に急死するということもあった。

 それで、子供のことにも触れておく。 長女・筆子は、明治32(1899)年5 月に熊本で誕生、漱石32歳。 翌明治33(1900)年9月に横浜を出航してロ ンドン留学。 明治34(1901)年1月次女・恒子誕生。 明治36(1903)年 1月帰国、11月三女・栄子誕生。 明治38(1905)年12月四女・愛子誕生。  明治40(1907)年6月長男純一誕生。 明治41(1908)年11月次男・伸六 誕生。 漱石・鏡子夫妻は、五女二男、七人の子福者だった。

 漱石が教職を辞して朝日新聞社に入社したのは、明治40(1907)年4月だ から鏡子夫人は30歳で、長男純一が誕生したばかり、長女・筆子は8歳、恒 子は6歳、栄子は4歳、愛子は1歳4か月だった。 漱石が亡くなった時、鏡 子夫人は結婚生活20年で39歳、長女・筆子は17歳だった勘定になる。 今 39歳といえばと、「39歳 女優」で検索してみたら、安室奈美恵、観月ありさ、 辺見えみり、と出た。

(私は「等々力短信」第1025号(2011(平成23)年7月25日)に「漱石と 虚子の「送籍」問題」を書いていた。 ほかに、「「文豪・夏目漱石」展」第981 号(2007(平成19)年11月25日)、「『永日小品』を味わう」第985号(2008 (平成20)年3月25日)も。  ブログにする前にも、「『漱石全集』第十七巻 『索引』」(「広尾短信」)第44号(1976(昭和51)年5月15日)、「博士号を 断わった漱石の手紙」第223号(1981(昭和56)年7月25日)、「ある時代の 終り」第620号(1992(平成4)年11月25日)、「子規・漱石と寄席」第640 号(1993(平成5)年6月25日)、「漱石の句と落語」第750号(1996(平成 8)年9月25日)、「漱石と諭吉」第894号(2000(平成12)年11月5日)、 「松山と子規・漱石」第921号(2002(平成14)年11月25日)があったの で、明日から順次再録することにしたい。)