漱石の句と落語2016/11/01 06:30

   等々力短信 第750号 1996(平成8)年9月25日

           漱石の句と落語

 半藤一利さんの『漱石先生 大いに笑う』(講談社)は、版型や体裁からい って、正続『漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋)の続編のようだが、特別な趣 向がある。 それは、漱石の俳句をタネにして、諸事百般・森羅万象について 考えていると、ついには漱石の人となりや文学について、友達づきあいができ るようになるというのだ。  

 夏目漱石が落語好きで、正岡子規といっしょに寄席に通った話は、前に書い たことがある。(「等々力短信」第640号) 『大いに笑う』は、のっけか ら漱石と落語的世界の話題になる。 そこで半藤探偵は、漱石の俳句のなか に、落語から来ているものはないかという探索を開始する。 「ステテコの円 遊=鼻の円遊」をひいきにしていた漱石が、『吾輩は猫である』の金田金持夫 人を「鼻子」としたのは、「鼻の円遊」からの連想だろうと、半藤さんはいう。 漱石の俳句にも、その円遊が出演している。

      円遊の鼻ばかりなり梅屋敷                 

 「京橋中橋加賀屋佐吉方から参じました」という番頭が「黄檗山錦明竹、ズ ンドの花活(はないけ)には遠州宗甫の銘がござります。 利休の茶杓、織部 の香合、のんこの茶碗、古池や蛙飛び込む水の音、これは風羅坊正筆の掛け 物、沢庵木庵隠元禅師張り交ぜの小屏風」と、早口の関西弁の言い立てをする 「錦明竹」。 書き写してみると、落語が実に教養にあふれていることに気付 く。 明治40年頃の「断片」にある句。

  姫百合の筒の古びやずんど切                

 修善寺大患直後の明治43年の句、

  秋風や唐紅の咽喉仏

を、「千早振る」神代もきかず竜田川に結び付けるのや、義姉登世の死を悼ん だ、

  骸骨やこれも美人のなれの果

を、「野ざらし」のしゃれこうべ、あるいは尾形清十郎が手向けた句「野をこ やす骨をかたみのすすき哉」からきたとするのは、半藤さんも言っているよう に、ちと苦しい。 半藤さんが「ついにわれ発見せり」と叫んだという落語的 佳句は、その探索の努力に免じて、なるほどといいたいのだ。 明治28年の 作、落語「芝浜」起源という。

  初夢や金も拾はず死にもせず

漱石と諭吉2016/11/02 06:14

     等々力短信 第894号 2000(平成12)年11月5日

               漱石と諭吉

 岩波書店の『漱石全集』に、第十七巻「索引」が出たのは1976(昭和51) 年4月のことで、始めてから一年を過ぎたばかりの、ハガキに和文タイプ謄写 版印刷だった「広尾短信」同年5月15日の44号で、取り上げている。 さっ そく「広尾」「慶應」「福沢諭吉」を引いてみて、当時住んでいた「広尾」の、 まさにその同じ場所である祥雲寺墓地の横に、鈴木三重吉が住んでいたらしい こと、「慶應」は、講演を断わる手紙を書いたという日記と、英語教師になれと いう話を断わることにふれた小宮豊隆宛の手紙に登場するだけで、「福沢諭吉」 にいたっては、『漱石全集』全十六巻に一度も現れないと書いている。 当時、 ひどくがっかりしたのを覚えている。 漱石は、福沢が嫌いだったのだろうか、 などと思った。 漱石がイギリスに留学したのは、福沢が死ぬ一年前の1900 (明治33)年のことだ。 漱石が少年期か学生時代に、ベストセラーである福 沢の著作を、まったく読んでいなかったとは考えられないからだった。

 司馬遼太郎さんは、天才夏目漱石の出現によって、大工道具ならノコギリに もカンナにもノミにもなる「文章日本語」ができあがったという持論を展開し た。 漱石の文章を真似れば、高度な文学論も書けるし、自分のノイローゼ症 状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活を描 写することもできるというのだ。 『司馬遼太郎全集』月報に書いた「言語に ついての感想(五)」(文春文庫『この国のかたち 六』所収)の中で、司馬さん はその漱石以前に、新しい「文章日本語」の成熟のための影響力をもった存在 として、福沢諭吉の文章をあげる。 とくに『福翁自伝』を、明晰さにユーモ アが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている、と いう。 ただ福沢の時代のひとたちの、事柄を長しゃべりするとき、つい七五 調になってしまう伝統の気配が『福翁自伝』にも匂い、そのため内容の重さに くらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ=かるはずみ)になっていると指摘す る。 「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石の 『坊ちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもな い。 偶然なのか、影響があったのか。 私は論証なしに、あったと思いたい」 と、司馬さんは書いている。

 漱石の蔵書中に福沢の著作があったかどうか、『坊ちやん』に『福翁自伝』の 影響があるのかなど、両者の関係を研究してくれる人はいないだろうか。

松山と子規・漱石2016/11/03 06:32

     等々力短信 第921号 2002(平成14)年11月25日

                 松山と子規・漱石

 10月末、福沢諭吉協会の史蹟見学旅行で、徳島と、初めての松山に行って来 た。 子規正岡常規の出た松山は、俳句の都だという。 道後公園に松山市立 子規記念博物館という立派な施設があって、常設展の他に企画展「子規と松山」 の開催中だった。 めったにない機会なので、同館刊『季題別 子規俳句集』を 奮発してきた。 アメリカも共にしぐれん海の音 子規(明治22年=22歳。 子規も漱石も明治と同じ年になる)

 岩波文庫の『漱石・子規 往復書簡集』(和田茂樹編)によれば、二人は、こ の明治22(1889)年1月頃、第一高等中学校の同級生として出会い、寄席の 趣味をとおして親しくなった。 5月には正岡が喀血して、翌日俳句4、50句 を作り、「子規」と号した。 「啼(な)いて血を吐く時鳥(ほととぎす)」と 形容された時鳥(子規)は、当時結核の代名詞だった。 友人と子規を見舞っ て帰宅後、漱石が俳句二句(漱石最初の俳句)を添え、入院加療を勧めた手紙 が、子規宛の最初の書簡である。 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 金之助 追伸 に「僕の家兄も今日吐血して病床にあり。かく時鳥が多くてはさすが風流の某 (それがし)も閉口の外なし。呵々(かか)」とある。

 子規は大学を中退して入社した新聞『日本』で、俳句や短歌の革新を叫び、 新体詩を試み、写生文を唱えた。 明治28(1895)年28歳、日清戦争に記者 として従軍した子規は、帰国の途中に病状が悪化、神戸と須磨で入院の後、松 山に帰る。 その松山には、この年松山中学校の英語教師になった漱石がいて、 その下宿上野方離れの「愚陀仏庵」に子規は転がり込み、連日「松風会」句会 を開く。 漱石の子規宛書簡には、この後、たくさんの俳句が書かれ、子規の 選句、添削、評を受けている。 例えば11月3日帰京した下谷区上根岸町八 十二番地子規宛分、「谷川の左右に細き刈田哉」に「狭きの意か それにしても 陳腐」、「芋洗ふ女の白き山家(やまが)かな」に「女の白きトハ雪女ノ事ニヤ」、 「秋雨に明日思はるゝ旅寐哉」に「初心、平凡、イヤミ」、「白滝や黒き岩間の 蔦紅葉」に「初心の作為」といった調子である。

 明治33(1900)年2月12日、熊本の漱石宛子規書簡。 「愚痴談」と断わ って、寒い12月1月の病床で原稿書きに忙殺される様子を述べている。 昼 間は来客のため全くできず、夕刻から熱が出る、時候がよければ熱を押さえて 徹夜もするのだが、と。 子規は、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表し つづけた。

入船亭小辰の「のめる」2016/11/04 06:12

 10月28日は、第580回の落語研究会だった。 寒くなってきて、いつもの 天ぷら屋さんでは、ミニ天丼でなく、かき揚げの天茶漬にした。

「のめる」      入船亭 小辰

「附子(ぶす)」    三笑亭 夢丸

「おかめ団子」    橘家 圓太郎

        仲入

「風呂敷」      三遊亭 兼好

「お化け長屋」    柳家 小三治

 小辰は扇辰の弟子、出囃子に唄が入る。 「いっさいいっさいろん」という のだそうだ。 炬燵、そろそろ出す時期なので、名前は言わないけれど、ある 大型家電量販店で探したが、ない。 聞いてみると、炬燵は売れない、炬燵は 流行らない、炬燵はよした方がいい、と。 ビッグカメラ、二度と行かない。

 無くて七癖、有って四十八癖という。 隠居さん。 何だい、八っつあん。  お知恵を拝借したい。 建具屋の半公、知ってますか。 半さん、知ってるよ。  口癖がある、何かと「つまらねえ」と言う。 仲間で楽しく飲んでも、割前取 られたから「つまらねえ」。 お前にもある、「一杯のめる」。 ご存知でしたか。  塩辛があると言えば、「一杯のめる」、おはぎがあると言っても、「一杯のめる」。  この間は、佐藤さんの所でお通夜だと伝えに来たのに、「一杯のめる」、怒って いたよ。

 それで半公と、口癖を言ったら一円ずつ割前を出すことにした。 賭けだな。  あっしは、そそっかしいが、半公はずるがしこいんで、何か、いい知恵を。 半 纏を裏返しにして、腰に荒縄を巻き、手に糠(ぬか)を付けて行く。 田舎の おばさんから、沢庵大根百本送って来て、一斗樽(ひとだる)がないので、醤 油樽に漬けようと思うのだが、どうだろうね、と言うんだ。 おさまらない、 とか言ったら、つまるかい、「つまらねえ」となる。

 八っつあん、頭から糠かぶって、化け物みたいになって、行く。 これこれ だが、一斗樽がない。 おっかあ、出してやんな。 醤油樽につまるかな。 わ ざわざ、それを聞きに来たのか。 どう考えても、つま! へえらねえな。 ギ ューーッとやれば? タガが弾けて、つまるんじゃないか。 つまるよ、「つま らねえな」。 お前が自分で言った、一円出しな。 おっかあ、羽織を出しな、 伊勢屋の旦那が隣町で鰻屋を開業したってんだ、お祝いに行こう。 そりゃあ、 「一杯のめる」。 一円出しな、嘘だ、帰えんな、帰えんな。

 隠居さん、言って来ました。 何だ糠かぶって、そこまでやんなくていい。  あべこべに一円取られた、くやしいよ。 半さん、将棋好きだろう、家で詰将 棋の真似事をしていろ。 教えてやろう、金、銀、桂、香、歩三枚で、王様を 都詰にする、どんなに上手い人がやっても、詰まない。

 八公、湯へ行かねえか、湯銭返してやるから…、何だ詰将棋やってんのか。  王の頭に、金張れ。 今、考えてんだ。 ちょっと待て、面白いな、俺にやら してくれ。 駄目だよ、わかりかけてるんだ。 角が効いてる。 ア、ウン、 ウーーン。 半さん、それ詰むかね。 誰に聞いたんだ。 三浦さん。 あの 人、よく立つからね。 半さん、詰むかね。 「つまらねえ」。 一円出せ。 こ れまでの支度をしたのか、一本取られた。 これで一円やるよ、生涯の知恵、 いっぺんに出しやがったな、お前の考えがとてもいいから、もう一円やろう。  そいつは有難い、「一杯のめる」。 おっと、差っ引きだぁー。

三笑亭夢丸の「附子(ぶす)」2016/11/05 06:34

 三笑亭夢丸、落語芸術協会所属、夢楽の弟子だった先代の弟子だそうだ。 夢 楽なら昔「お笑いタッグマッチ」で見て知っていた。 走って出て来る。 丸 顔でニコニコ、いろんな所で呼んでくれるという。 先日は金沢城、といって も原っぱで、野点のよう。 高千穂、あてどなき山の中、椎葉村の小学校、生 徒4人、落語を教えて下さいと言われた。 網戸を閉めた方がいい、鹿が入っ てくるから。 生徒が一年に一度、宮崎の市内で、話をする機会がある。 年 に4回通うのだが、純朴で生真面目に練習する。 小3の男の子、一生懸命で、 創意工夫をする。 毎回がんばっているね、毎回上手くなっているよ、と言っ たら、「そちらこそ」。

 番頭さん、上総屋さんの婚礼に、ついてってくれ。 貞吉では駄目ですか。  あいつは、悪気しかない、はばかりの中から、悪口を言っているのが聞こえて きた、(歯を)シーシー言う、お世辞を言ってもシー。 権助は? 駄目だ、番 頭さんについて来てもらいたい。 箱の中に蜜がある。 家内は留守で、残る のは貞吉と権助だけだ。 手を出させない工夫をしよう。 附子(ぶす)とい う猛毒だということに。

 あの箱は家にずっとおいてある附子だ。 おかみさんのことですか。 附子 という猛毒だ、手をふれるな。 何でそんなものがあるんですか。 家は先祖 代々の武家の出なのだが、恥をかくのを嫌って、脱藩した。 もらしたんです な。 脱藩だ、恥をかくくらいなら附子をなめる、それで一族郎党死に絶えた。  なぜ、末裔がそこに…、言い訳を聞きたい、説明責任を果せ。 恥という字も 書けなかったのに。

 附子という猛毒だって言うが、嘘っぽいよ、権助、見てみよう。 旦那様の 言う事を聞け。 いつも旦那のいいなりじゃないか。 箱をゆっくり下ろして、 瓶(かめ)を開けるよ、権ちゃん。 甘い匂いだ。 舐めてみよう。 ウンウ ン、ウンウン。 どうだ、美味いか。 美味い。 甘い甘いと、二人でカラッ ポにしてしまった。 えれえことになった。

 こうしよう。 床の間の先祖伝来の壺、裏を見たら、紀州南高梅とあった。  掛け軸は弘法大師の筆というが、ぐちゃぐちゃした字をよく見たら、「人間だも の」だった。 みんな滅茶苦茶にしておこう。

 今、帰ったよ。 部屋がぐちゃぐちゃだ。 申し訳ない、権ちゃんとチャン バラをして、こんなことになっちまいました。 死んでお詫びをしようと、附 子を一舐め、舐めても、死にきれず…。 とうとう箱がカラッポになってしま いました、シー。 嘘だろう。 一つも、嘘をついていません、シー。 おか わりを、お願いします。 何だ、涼しい顔をしているな。 他人の不幸は、蜜 の味でございます。