松山と子規・漱石2016/11/03 06:32

     等々力短信 第921号 2002(平成14)年11月25日

                 松山と子規・漱石

 10月末、福沢諭吉協会の史蹟見学旅行で、徳島と、初めての松山に行って来 た。 子規正岡常規の出た松山は、俳句の都だという。 道後公園に松山市立 子規記念博物館という立派な施設があって、常設展の他に企画展「子規と松山」 の開催中だった。 めったにない機会なので、同館刊『季題別 子規俳句集』を 奮発してきた。 アメリカも共にしぐれん海の音 子規(明治22年=22歳。 子規も漱石も明治と同じ年になる)

 岩波文庫の『漱石・子規 往復書簡集』(和田茂樹編)によれば、二人は、こ の明治22(1889)年1月頃、第一高等中学校の同級生として出会い、寄席の 趣味をとおして親しくなった。 5月には正岡が喀血して、翌日俳句4、50句 を作り、「子規」と号した。 「啼(な)いて血を吐く時鳥(ほととぎす)」と 形容された時鳥(子規)は、当時結核の代名詞だった。 友人と子規を見舞っ て帰宅後、漱石が俳句二句(漱石最初の俳句)を添え、入院加療を勧めた手紙 が、子規宛の最初の書簡である。 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 金之助 追伸 に「僕の家兄も今日吐血して病床にあり。かく時鳥が多くてはさすが風流の某 (それがし)も閉口の外なし。呵々(かか)」とある。

 子規は大学を中退して入社した新聞『日本』で、俳句や短歌の革新を叫び、 新体詩を試み、写生文を唱えた。 明治28(1895)年28歳、日清戦争に記者 として従軍した子規は、帰国の途中に病状が悪化、神戸と須磨で入院の後、松 山に帰る。 その松山には、この年松山中学校の英語教師になった漱石がいて、 その下宿上野方離れの「愚陀仏庵」に子規は転がり込み、連日「松風会」句会 を開く。 漱石の子規宛書簡には、この後、たくさんの俳句が書かれ、子規の 選句、添削、評を受けている。 例えば11月3日帰京した下谷区上根岸町八 十二番地子規宛分、「谷川の左右に細き刈田哉」に「狭きの意か それにしても 陳腐」、「芋洗ふ女の白き山家(やまが)かな」に「女の白きトハ雪女ノ事ニヤ」、 「秋雨に明日思はるゝ旅寐哉」に「初心、平凡、イヤミ」、「白滝や黒き岩間の 蔦紅葉」に「初心の作為」といった調子である。

 明治33(1900)年2月12日、熊本の漱石宛子規書簡。 「愚痴談」と断わ って、寒い12月1月の病床で原稿書きに忙殺される様子を述べている。 昼 間は来客のため全くできず、夕刻から熱が出る、時候がよければ熱を押さえて 徹夜もするのだが、と。 子規は、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表し つづけた。