「神在月」の出雲(その3) ― 2016/11/14 06:32
私は『夏潮』に連載させてもらっていた『季題ばなし』の第16回に「神無 月」を取り上げた(平成23(2011)年11月号)。 そこには、こんなことを 書いていた。 出雲に来た神々が、「十月晦日、または十一月朔日に出雲から帰 られるのを「神還(カミカヘリ)」、お迎えすることを「神迎(カミムカヘ)」とい う。本来、里に来た田の神が、収穫が終わり山に帰るのを送った祭で、この神 去来の信仰が出雲信仰と習合したものといわれている。」
「大国主命は国作りの神、開拓、五穀の農耕守護神であったが、中世には大 黒天信仰と習合、近世以降一般庶民の間では福の神、男女の良縁を取り持つ縁 結びの神、平和の神、農耕の神として、全国的に親しまれている。 神話では、高天原を追われた素戔鳴尊(スサノオノミコト)は出雲に降り、八 岐大蛇 (ヤマタノオロチ)を退治してこの地方を治め、その裔大国主命はさらに 国土を経営したが、天孫降臨の前、その国土を譲れという天照大神の命に応じ て政権を離れて隠退したという。かつて弥生時代を、九州を中心とする文化圏 と、畿内を中心とする二つの文化圏の対立の時代と見る見方があった。第二次 大戦後、瀬戸内海地方など各地で発掘が進み、その主張は難しくなる。一九八 四(昭和五十九)年夏、島根県簸川郡斐川町神庭の荒神谷遺跡で弥生時代の銅剣 三百五十八本(過去の出土総数を大量に上回る)のほか、銅鐸・銅鉾など多数の 青銅器が発掘され、銅鐸が畿内、銅鐸・銅鉾が九州地方に分布するという従来 の学説を覆した。そして弥生時代後半に島根県の斐川流域を中心に一定期間続 いたとされる出雲王朝の存在に、再び光が当たることとなった。」
『夏潮』では、私の『季題ばなし』の後、会員で考古学がご専門と聞く石神 主水さんが『時を掘る』を連載されている。 その第4回、平成24(2011) 年11月号が「神在月」だった。 そこで石神さんは、『日本書紀』が天皇家と 国家の歴史を対外的に示す役割を果たしたのに対して、『古事記』には神話の世 界をありのまま伝えようという意思が見て取れ、「出雲神話」の存在は『古事記』 特有のものだとする。 その記述の多くが『日本書紀』に全く現れて来ない点 から、ヤマト王権とは異なる、「滅ぼされた」イズモ「王権」の存在が見え隠れ してくる、というのだ。 日本全国の神社に坐す八百万の神々が「神無月」に、 なぜ出雲に集い出雲は「神在月」となるのか。 「日本書紀では、オホクニヌ シが作り上げたアシハラノナカツクニ(葦原中国・日本)を、天降りしたニニ ギ(瓊瓊杵尊)に戦わずして「国譲り」することになります。その折、現世の まつりごと「顕露(あらわに)の事」はニニギが行い、神の世界のこと「神事 (かみごと)」はオホクニヌシが行うこととされたため、神々は出雲に集うので す。」という。 上記の斐川町神庭(かんば)荒神谷遺跡の大量の銅剣や銅鐸の ほか、一九九六年には雲南市の加茂岩倉遺跡から三十九もの銅鐸が出土した。 また出雲の旧家木幡家所有の銅鐸と佐賀県吉野ヶ里遺跡出土の銅鐸が、同じ鋳 型で作成された兄弟銅鐸であることも明らかになった。 石神さんは、こうし た考古学的発見からは、弥生時代の九州、山陰地方とのつながりや、日本海域 を中軸とした出雲の存在感がいかに高いものであったかを思い知らされるとし、 記紀にある「国譲り」の有無は謎のままだが、出雲の力がヤマト王権を脅かす ものであったことは確かだろう、とするのだ。
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