「歌川国芳 スカイツリー画像」考 ― 2016/11/17 06:21
GoogleのCMだろうか、スマホに「歌川国芳 スカイツリー画像」と話しか けて、検索するのがある。 東京スカイツリーが出来た頃、歌川国芳が隅田川 を描いた浮世絵の中に、東京スカイツリーによく似た塔があるというのが、話 題になった。 「歌川国芳 スカイツリー画像」で検索すれば、その浮世絵「東 都三ッ股の図」が出てくるので、ぜひご覧を…。 その「謎の塔」は、井戸掘 りの櫓だとか、大相撲の触れ太鼓の櫓だろうとか、いろいろ議論があった。 CMの人力車夫が「ドンピシャの場所」と言っているのは、間違いである。
宮川幸雄さんは、『夏潮』俳句会、高校新聞のOB会、福澤諭吉協会でご一緒 する深川在住の友人だが、同人誌『うらら』に毎号、素晴らしいエッセイを発 表している。 『うらら』第69号(2016年5月)の「深川佐賀町「船橋屋織 江」を探る」では、その塔の謎にふれている。 「船橋屋織江」は和菓子屋で、 文政年間(1818~1831)に練羊羹がヒットして、大繁盛した。 それまで蒸羊 羹だったのを、江戸前期の万治年間(1658~1661)に寒天が創製され、寛政 (1789~)の初めに練羊羹が江戸で作られて全国に広まったのだそうだ。 「船 橋屋織江」の主人は、天保13(1842)年に近世菓子製法書の最高峰といわれ る『菓子話船橋』を出版、幕末には写本を含め広く流布した。 昨年の大河ド ラマ『花燃ゆ』の主人公杉文が、長州萩で練羊羹をつくり松下村塾や藩主毛利 家の奥御殿で振る舞った。 そのセリフ「江戸で評判の船橋屋の羊羹、その練 羊羹の作り方を得て、自分で作ってみましたの」が気に入らない、と宮川さん。 「船橋屋」では現在も盛業中の亀戸天神「元祖くず餅 船橋屋」(わが家で「く ず餅」といえば、この「船橋屋」だ)と間違えてしまう、「船橋屋織江」は江戸 時代後半に全盛を誇ったが、明治末年に忽然と姿を消したのだと言う。
「船橋屋織江」の所在地は深川の西端、永代橋近くの隅田川左岸寄り、現在 の江東区佐賀2丁目の佐賀稲荷社の付近、佐賀町河岸通りから少し東に入った 所だった。 佐賀町河岸通りは江戸期、一ツ目通りと言われ、永代橋を渡って 深川に入り、萬年橋を渡り、本所両国の一之橋に至る、本所と深川を結ぶメイ ンストリートで、往来の多い道だったそうで、元禄15(1702)年12月、討ち 入りを果たした赤穂浪士が泉岳寺に引きあげたのも、この道なのだという。
宮川さんは、「東京新聞」平成23(2011)年2月22日の「こちら特報部」 欄に、「江戸の空にスカイツリー 歌川国芳作 浮世絵に謎の塔」という記事が あり、その正体について、井戸掘り櫓の可能性を示唆しているが、「埋め立て地 の深川で、真水が出るんだろうかと懐疑的な見方の研究者もいる」と指摘して いる、と書いている。 国芳の浮世絵「東都三ッ股の図」は、天保年間初期に 発表したと考えられ、「シジミ狩り」の船と船頭たちのいる隅田川ののどかな風 情が描かれている。 手前では、二人の船大工が防腐のために船腹を焼いてい る。 右手の大きな橋は永代橋、その向こうは佃島、左の遠景には小名木川に 架かる萬年橋が描かれ、その近くに問題の、不思議な形状の巨大建造物が建っ ている。 これが平成24(2012)年開業の東京スカイツリーに似ていると話 題を呼んだ。
「三ッ股」は日本橋中州にあった。 「船橋屋織江」があった深川佐賀町か らは隅田川の対岸に位置する。 千葉県袖ケ浦市郷土博物館の能城秀喜氏が、 この東京スカイツリーに似た「謎の塔」の正体は、大坂掘りの丸太組み井戸掘 り櫓に他ならないと、「上総掘り前史・大坂掘り三百年」(『帝京平成大学紀要』 第23巻第2号)で断定した。 しかも、その井戸を掘るための櫓は、「船橋屋 織江」が一日に膨大な量を使用した菓子製造用水に対応するために所有してい た自家用掘抜井戸であるとしている。 埋立地の深川でも真水は出ていたと見 るべきである、と。 宮川さんは、粗目に現在の永代通りを江戸初期の海岸線 とみてその以北は陸地なので「船橋屋織江」のあった佐賀町には隅田川の伏流 水があったとし、昭和50年代まで深川永代2丁目にあった正木屋豆腐店で、 少年時代に何回も美味しい井戸水を飲まして(江戸弁だ)もらった、店の主人 はこの水のお陰でうちの豆腐が造れていると自慢していた、と書いている。
江東区教育委員会の資料によると、平成19(2007)年に現在の佐賀2丁目9 番地での発掘調査で、100平方メートルほどの狭い範囲から4基もの井戸が発 見された。 「船橋屋織江」の店舗があった場所だそうである。
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