伊那路の漂泊俳人・井月(せいげつ)2016/11/23 06:18

 19日土曜日の朝日新聞朝刊別刷赤いBe「みちのものがたり」(長野県)は「「無 能の人」に登場した俳人」という見出しだったので、読んでみた。 俳諧師・ 井上井月(せいげつ)の話だった。 明治19(1886)年12月、南信州伊那谷、 いまの長野県伊那市と駒ケ根市の境にある火山(ひやま)峠近くで行倒れてい た井月は、翌春<何処やらに鶴(たず)の声聞く霞かな>の句を残して死んだ。  享年数え66歳、もともとは越後長岡藩士だったようで、諸国行脚の末、幕末 伊那谷に現れると、ここに定着、ねぐらを持たず、無一物のまま、ひたすら伊 那路をさすらっていた。 誰ひとり、氏素性を知らない。 井上克三(勝蔵) とされる本名もさだかではない。 <我道の神とも拝め翁の日>、神のごとく 芭蕉を慕い、酔いつぶれながら句を詠み散らし、異郷で往生をとげたのである。

 つげ義春さん(79)が1980年代に漫画「無能の人」に描いた。 戦前に出 版された『漂泊俳人 井月全集』(昭和5(1930)年刊)を読んで、<何処やら に>の辞世の句に、死の世界で詠まれているような印象を受け、その一句だけ で井月に魅せられてしまったと、保科龍朗記者に語っている。 その『井月全 集』は、芥川龍之介と親密だった東京・田端の開業医、下島勲(1869~1947) が編者のひとりだった。 伊那谷の生まれで、代々、名主格だった生家は、晩 年まで井月の面倒をみていて、井月の没後、忘れ去られたのを惜しみ、ちりぢ りに埋もれていた句を集めてに出したのだという。

 田端の開業医、下島勲(しさおし)といえば、10月11日の当日記「芥川龍 之介と田端文士村記念館」に書いたように、10月8日の慶應志木会・歩こう会 の案内役、岡田幸次郎さんの奥様のお祖父さんではないか。 早速、岡田幸次 郎さんにメールする。 岡田さんも記事を読んでいて、井月の句の収集には芥 川龍之介も賛同し、協力してくれたようだという。 下島勲が描いた井月の絵 の原画や芥川からの手紙などは、駒場の日本近代文学館に寄贈したそうだ。 記 事にもある井月の生涯を伊那谷の四季に重ねて描いた映画『ほかいびと 伊那の 井月』(北村皆雄監督・2011年)では、駒ケ根市で12代続く下島家の当主・大 輔さん(78)が、土地と俳句について語っている、ともあった。 (「ほかい びと」とは、門前に立って祝言の歌や寿詞(よごと)を述べ、金銭を請う職能 者。折口信夫は「ほかいびと」の原型に、季節を定めて異郷から来訪するマレ ビト神の姿を想定し、そうした神を斎(いつ)く神人(じんにん・じにん)た ちが零落し、諸国を遍歴・漂泊する「巡遊神人」と変化し、さらに祝言が芸能 化して傀儡師(くぐつし)や夷(えびす)回し、声聞師(しょうもじ)、座頭な ど漂泊芸能民とつながることを説いている。)

 下島勲の弟の孫にあたるという、その大輔さん、記事でも「明治初期に神社 に奉納された『句額』をみると、集落の男の大半が俳句を書いていた。ここら では男たるもの俳句のひとつやふたつ詠めて当たり前と思われていたらしい。 米どころで養蚕も盛んだったから、暮らしに多少ゆとりがあったんでしょう」 と語っている。 井月は和漢の古典にも精通し、書も入神の技の達人だった。  勲の父、下島筆治郎は「姿を見ると乞食だが、書を見るとお公家さんだ」とほ めちぎっていたという、と保科記者は書いている。

 下島勲が『漂泊俳人 井月全集』より前の大正10(1921)年に出版した『井 月の句集』の巻頭には、高浜虚子が<丈高きをとこなりけん木枯に>という句 を寄せているという。  井月の俳句をいくつか、探して見た。

目出度さも人任せなり旅の春

降るとまで人には見せて花曇り

すくむ鵜に燃くず折るゝかゞり哉

石菖やいつの世よりの石の肌

落栗の座を定めるや窪溜り