薩道愛之助2016/12/07 06:29

 「O・K・」のこと」(「等々力短信」第432号 昭和62(1987)年7月15 日)を引く前に、アーネスト・サトウについて書いたその前の二回も引いてお く。

     等々力短信 第430号 1987(昭和62)年6月25日

              薩道愛之助

 幕末維新のことを書いた本で、アーネスト・サトウという名前を初めて見た 時、この人は日本人かと思った。 佐藤さんが難船でもして、ジョン・万次郎 のように、外国暮しをして来たのかと考えたのだ。 サトウ(Ernest M. Satow) は天保14(1843)年ロンドンで生まれた。 まだ19歳だった文久2(1862) 年に、イギリス公使館付の通訳見習として、初めて日本の土を踏む。 以後、 通算約25年間を、外交官として日本に駐在し、日清戦争直後の、明治28(1895) 年51歳の時から5年間は、公使として、大英帝国を代表して日本に勤務した のであった。 イギリスが、ヨーロッパ列強やアメリカ以外の国と大使を交わ したのは、日露戦争に勝った日本が最初だったが、それは明治38(1905)年 のことで、初代駐日英国大使は、サトウの次に公使を務めた、クロード・マク ドナルドであった。

 昭和51年10月12日から、朝日新聞夕刊に連載された萩原延寿さんの『遠 い崖――サトウ日記抄』は、サトウの日記や手紙、友人ウイリアム・ウイリス の手紙やイギリスの外交文書などから、アーネスト・サトウの生涯を丹念にた どった未完の力作長編で、現在もなお、萩原さんはロンドンで続きを取材中と 聞く。 私は、この時代と人に興味があり、さし絵を描いている風間完さんの 絵も好きで、第二部終了の昭和54年3月14日の第529回までの切り抜きをし た。 切り抜きやコピーというのは、おかしなものだ。 切り抜いたりコピー をするだけで安心してしまい、読まない場合が多い。 『遠い崖』も、放って あったのだが、あるきっかけがあって、読み始めたら、これがとても面白い。

 サトウという人は、大変な努力家だった。 若さもあったのだろうが、日本 語を学び始めてからたった2年半で、自由自在に使えるようになっている。 明 治維新にいたる幕末の激動期に、イギリス公使館がサトウを擁していたことが、 対日政策上、諸外国にくらべ、どれだけ有利であったか、はかりしれない。 長 州藩の伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)とは、薩道懇(または愛)之助の名 で直接文通し、ギブ・アンド・テイクで倒幕派の情報を的確に掴んでいる。 「先 日より再度御投紙有之、有難く存じ奉り候。然らば薄暑に御座候えども、いよ いよ御機嫌よく入らせられ候段、斜めならず賀し奉り候」といった調子だから、 すごい。 「薩長・イギリス」対「幕府・フランス」という図式で考えてみれ ば、維新回天におけるサトウの役割は、元勲のそれに匹敵する。

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