力の外交2016/12/08 06:32

     等々力短信 第431号 1987(昭和62)年7月5日

              力の外交

アーネスト・サトウの来日は、どんな時期だったのだろう。 横浜上陸のた った6日後、文久2(1862)年9月14日には、有名な生麦事件が起きている。  翌年には、このイギリス人殺傷事件の、責任を問うために鹿児島湾に入ったイ ギリス艦隊と、薩摩藩が砲火を交える(薩英戦争)。 同じ年には、長州藩が下 関海峡を通る外国艦船を砲撃する事件も起きて、翌元治元(1864)年の英・仏・ 米・蘭四国連合艦隊の下関砲台攻撃に至る。 外国に武力で対抗できないこと を、身をもって体験した薩長両藩は、すばやく親イギリスに方向転換し、この 時期から急速に倒幕運動へと進むことになる。

萩原延寿さんの『遠い崖』で、外交交渉における外国側の姿勢と、日本の対 応を読んでいると、昔も今も変わらないという感じがして、心配になってくる。  力で迫る外国に、日本の役人の対応は、いつも「時間稼ぎ」と「追いつめられ ての譲歩」なのだ。

サトウの上司オールコックは、約20年に及ぶ極東勤務の経験を回顧し、ラ ッセル外相(哲学者の祖父)にあて、次のように書いている。 「日本と結ば れた条約は、すべて日本に強制されたものである。そこで、日本人の性格、制 度、そして政府の上に巨大な変化が生じるまでは、そのようにして成立した条 約を、宗教的禁欲、つまり、手段としての武力の行使を断念することによって 保持できると考えるのは、無益なことである」「われわれの主張や抗議をたえず 無視することによって、われわれを限度に追いつめた場合、かならず武力の行 使に見舞われるという認識を日本人がもつ度合いに応じて、武力行使の必要は 減少するし、消滅もするのである」(『遠い崖』195回)

安政5(1858)年の日米修好通商条約に端を発する、諸外国との条約は、領 事裁判権を認め、関税自主権がないなど、不平等条約であった。 オールコッ クは、そのことを言っている。 そして条約を改正し、完全な主権を持った独 立国になるために、日本は、ほぼ明治という時代の全てをかけて、血のにじむ ような努力を続けねばならなかった。

幕府が貿易の利権を独占し、諸藩がそのうまみを吸えないことも、倒幕の一 つの要因になった。 イギリスの外交文書には「幕吏は煩雑な規則をたてに取 って、自由な商取引をことごとく妨害している」(228回)とか、「制限を挿入 することによって搾取をおこなう日本人の性癖」(232回)といった色あせない 報告もあって、興味深い。