マードック先生と夏目漱石2016/12/10 06:28

稲場紀久雄さんの『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(平凡社)に、バ ルトンの親友としてマードックが出て来る(176頁)。 「1889(明治22)年 晩秋のある日、マードックが8歳になる一人息子のケネスを連れてバルトンの 官舎を訪ねた。スコットランド出身の気の置けない友人である。」

(ジェームズ・)マードックは1856(安政3)年のアバディーン近郊ストー ンヘイヴン生れ、アバディーン大学で文学士の学位を得て(1880(明治13) 年・24歳)、オックスフォード大学に進んだ。 そこで結婚し、ケネスが生ま れたが、夫人は間もなく亡くなった。 悲しみを紛らわせるためオーストラリ アに渡り、グラマースクールの校長から、ジャーナリズムの世界に身を投じた。  白豪主義の弊害を取材するため香港や広東を回り、その帰途、日本に立ち寄っ た(1888(明治21)年・32歳)。 その時、日本の美しさに心を奪われ、新聞 社を辞職して来日し、第一高等中学校の英語と歴史の教師になった(1889(明 治22)年・33歳)。 夏目漱石(当時22歳)や山縣五十雄(いそお)は、マ ードックの教え子である。 と、稲場紀久雄さんは書いて、漱石の「博士問題 とマードック先生と余」から、漱石がマードックの蛮カラで飾らない人柄を伝 える文章を引用している。

夏目漱石・金之助がマードックの生徒であった1889(明治22)年から22年 後の明治44(1911)年、夏目漱石の博士号辞退問題が起きて、漱石はそれにつ いてのマードックの手紙を受け取るのだ。 その間、二人は顔を合せたことも、 手紙の往復をしたこともなかった。

『漱石全集』の索引で「マードック」を引くと、第11巻『評論 雑篇』「博 士問題とマードック先生と余」(明治44(1911)年3月6日~8日「東京朝日 新聞」)と「マードック先生の日本歴史」(明治44年3月16日・17日「東京 朝日新聞」)という文章があり、第14巻『書簡集』と第15巻『続書簡集』に 「マードック」の名前の出て来る手紙がある。

マードックは1900(明治33)年(44歳)に鹿児島の第七高等学校へ赴任し、 1903(明治36)年(47歳)『日本歴史』第1巻(ポルトガルとの交流に始まる 中世史)を刊行、1908(明治41)年(52歳)に教職を離れたが鹿児島にとど まった。 1910(明治43)年(54歳)『日本歴史』第2巻(中世以前の歴史)、 1915(大正4)年(59歳)『日本歴史』第3巻(江戸時代)書き上げる(刊行 は1926(昭和元)年で、1921(大正10)年65歳で死去の没後。)

明治41(1908)年6月14日付、鹿児島の野間眞綱宛(書簡番号954)は、 「マードツクさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英国 人もあんな人許だと結構だが、英国紳士抔といふ名前にだまされて飛んだもの に引かゝる」とある。大正3(1914)年1月24日付・野間眞綱宛(書簡番号 1775)には、桜島噴火の報に「マードツクさんも無事だらうと思ふ もしあつ たら宜敷いつてくれ玉へ」とある。

明治44(1911)年3月10日付・久内清孝宛(書簡番号1284)は、マード ック先生の日本歴史を受け取ったお礼。 3月14日付・森田米松宛(書簡番号 1289・1290)は、「マードック先生の日本歴史」上下批評の原稿が出来た、時 間の許す限り検閲したい、掲載の節はマードック先生に送るので二部ずつ欲し い、というもの。