「博士問題とマードック先生と余」前半2016/12/12 06:32

 そこで、夏目漱石の「博士問題とマードック先生と余」(明治44(1911)年 3月6日~8日「東京朝日新聞」)である。 夏目漱石・金之助が高等学校でマードックの生徒であった1889(明治22) 年から22年後の明治44(1911)年、夏目漱石の博士号辞退問題が起きて、漱 石はそれについてのマードックの手紙を受け取る。 その間、二人は顔を合せ たことも、手紙の往復をしたこともなかった。 漱石は、高等学校でマードッ クがどんな先生であったかから書き始める。 毎週5、6時間、先生の英語や 歴史の授業に出ただけでなく、時々は先生の私宅に押し掛けて話を聞いたぐら い親しかった。

先生は純然たるスコットランド語を使って講義や説明や談話をやった。 そ のため同級生はみな辟易の體(てい)で、ただ烟に巻かれていた。 ただ先生 の性質がいかにも淡泊で丁寧で、立派な英国風の紳士と極端なボヘミアニズム を合併したような特殊の人格を具えているのに敬服して、教授上の苦情をいう ものは一人もなかった。 (その後、先生が服装にかまわず、生活も同様にシ ンプルだったらしいとの記述がある。)

当時はほんの小供であったから、先生の学殖とか造詣とかを批判する力はま るでなかった。 第一先生の使う言葉が、余(以下、私)の英語とはすこぶる 縁の遠いものだった。 それでも私は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研 究者であったから、分からないながらも出来得る限りの耳と頭を整理して先生 の前に出た。

当時は訪問時間など気にしておらず、朝早く先生宅に行ったら朝食中で、食 卓の前に座らせ、もう飯を食ったかと聞かれた。 先生は卵のフライを食べて いた。 やがて肉刀(ナイフ)と肉匙(フォーク)を中途で置くと、書棚から 黒い表紙の小型の本を出して、ある頁を朗々と読み始めた。 一言もわからな い、いったいそれは英語ですかと聞くと、先生は笑い出し、これはギリシャの 詩だと言う。 英国の表現に、珍紛漢(ちんぷんかん)の事を、「それはギリシ ャ語さ」というのがある。 先生がなぜそれを読んで聞かせたか、今は思い出 せないが、何でもギリシャの文学を推称した揚句の事ではなかったかと思う。

 ベインの論理学を読めと言って、貸してくれたこともあった。 なかなか読 めずにそのままにしていたら、前に貸した本は僕の先生の著作だから保存して 置きたいから、読んだら返してくれと言われた。 その本は大分丹念に使用し たものと見えて、裏表とも表紙が千切れていた。 その本を借りたときにも返 した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心に羨ましかっ た。

 ある時、どんな英語の本を読んだらよいかと聞いた。 先生はすぐ手近の紙 片に、十種ほどの書目を書いてくれた。 私は、時を移さずにその内のあるも のを読んだ。 即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得るたびに、こ れを読んだ。 どうしても見つからなかったものは、ロンドンに行った時に、 買って読んだ。 約10年の後に、始めて全てを読むことが出来たのである。  先生はあの紙片にそれほどの重きを置いていなかったのだろう。 また10年 経った今日から見れば、それほど先生の紙片に重きを置いた私の方でも可笑し い気がする。

 ロンドンから帰った当時、先生は鹿児島の高等学校で英語を教えていると分 かった。 鹿児島から人が出て来ると、マードックさんはどうしたと尋ねない ことはなかった。 先生について最後に聞いたのは、先生がとうとう学校をや めてしまって、市外の高台に居を移して、果樹の栽培に余念がないらしいとい う事だった。 先生は「日本に於る英国の隠者」というような高尚な生活を送 っているらしく思われた。 博士問題に関して先生から届いた一封の書簡は、 実にこの隠者が20余年来の無音を破る價(あたい)ありと信じて、とくに私 のために認めてくれたものと見える。