虚子と漱石の京都2016/12/28 06:14

 荒正人著『漱石研究年表』、大正4(1915)年3月19日の前日、18日の記事 によると、この漱石の京都旅行は東京、大阪の両朝日新聞社には内緒だった。  ただ朝日新聞社の山本松之助(笑月)宛手紙に、3月一杯には帰る予定だから、 高浜虚子の「柿二つ」の後、原稿を書くつもりだが、「柿二つ」が予定より十回 以上早く切り上げられる時は、中勘助のものにして頂きたい、と書いている。  「柿二つ」は4月16日に終り、漱石はまだ病後の静養中だったので、4月17 日から中勘助の「つむじまがり」(『銀の匙』後編)が連載されることになる。

 その高浜虚子だが、その8年前の明治40(1907)年4月10日、夏目漱石と 一緒に「都をどり」を見た後、「一力」で舞妓の千賀菊と玉喜久(共に13歳) と4人で雑魚寝をするということがあった。 虚子33歳、漱石40歳である。  「吾輩は猫である」が『ホトトギス』に連載された2年後、「猫」と「坊っち ゃん」の大成功でいよいよ小説家となる覚悟を決めた漱石の、朝日新聞社入社 の社告が4月1日に出て、大阪へ挨拶に行った折のことだ。 虚子は奈良へ取 材に行く途中、京都に滞在、萬屋(三条小橋西)に泊っていた。 この萬屋、 本井英主宰の『夏潮』連載「虚子への道」第十五回(2009年8月号)「ジャー ナリスト虚子」を見たら、萬屋別荘(三条大橋西詰)とあった。  この時、漱石は虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」を推賞して、こう いう短篇を沢山書いたらよかろうと言ったと「京都で会つた漱石氏」にあるそ うだ(西村和子著『虚子の京都』(角川書店))。

 本井英主宰の『夏潮』連載「虚子への道」第十三回(2009年6月号)「小説執筆」も参照すると、虚子は明治40(1907)年3月、胃腸を損ねて医者に勧められた健康のため、毎月十日ほどずつ旅行することにした最初に比叡山へ行き、『国民新聞』に「叡山詣」を連載、『ホトトギス』4月号に小説の処女作「風流懺法」を発表した。 「風流懺法」の前半は「横河(よかわ)」、比叡山横川に滞在している「余」は、一念という東京出身の不思議な小僧、利発だが一寸癖のある少年に出会う。 後半は「一力」、阪東君(鉱山経営者、知白斎藤伊三郎がモデル)と祇園の一力で茶屋遊びをし、三千歳ら舞妓の可愛らしい様子や、雛人形のような三千歳と一念の淡い恋が描かれる。

 その翌月10日、虚子は漱石を茶屋遊びに誘い、舞妓の千賀菊(「風流懺法」 三千歳のモデル)玉喜久(共に13歳)と4人で雑魚寝をすることになる。 虚 子は大散財をし、2年前に出版業「俳書堂」を譲った江戸庵籾山(仁三郎)梓 月に50円(今なら50万円)の送金を頼んでいる。