虚子と多佳女と茶屋遊び2016/12/29 06:27

 虚子は翌明治41(1908)年5月号『ホトトギス』の小説「続風流懺法」に、 この雑魚寝の経験を書く。 本井英主宰の「虚子への道」第十五回(2009年8 月号)「ジャーナリスト虚子」によると、「続風流懺法」は、前作の「一念・三 千歳」の幼いカップルに加えて、「大人のカップル」が登場する。 男は4年 前にフランスから帰国して、旧臘この地で急逝した浅井忠(文中、浅田先生)。  女は文芸芸妓として名を馳せた磯田多佳女(文中、お藤さん)である。 前年 多佳女が開いた陶器店「九雲堂」(文中、九皐堂(きゅうこうどう))も舞台と して登場する。

西村和子さんの『虚子の京都』によると、虚子は大正4(1915)年10月10 日、京都のお茶屋「大友」に初めて行き「風流懺法」の登場人物たちとの久々 の再会をした。 「十九日間」に、大友の女将について「僕が風流懺法の中に 一念の伯母さんにしたのが此女主人である如く世間では言はれて居るが、それ も或一二の事実を借り用ゐたのに過ぎぬのである」としているそうだ。 「大 友」を訪ねたのは初めてだが、磯田多佳とは「九雲堂」の女主人であった頃か らの知り合いだったと、西村さんは書いている。 祇園新橋通り白川沿いのお 茶屋「大友」跡には、現在、馴染み客の一人、吉井勇の歌碑が建っているそう だ。 <かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる>

 「雑魚寝」と「都をどり」や「茶屋遊び」がどんなものだったかについても、 本井英主宰の「ジャーナリスト虚子」に出て来る。 虚子は明治41(1908) 年4月松山に帰省し、帰途、京阪に至り、再び祇園一力に遊んだ。 長塚節が 同行している。 長塚節は明治12年生まれ、虚子より5歳若い。 歌人とし て活躍し、写生文も『ホトトギス』に掲載されていた。 虚子に連れて行って もらった長塚節が、4月15日「旅日記」と題する書簡を下妻の藤倉新吉に送っ ているそうだ。 ここに「七条停車場」が出て来た。

 「十一日 午前十一時七条停車場につく、東山に遊ぶ。名物芋棒をくふ。夜 虚子を賀茂川河畔の旅舎に訪ふ、橋上の人識るが如し」 「十二日 午後三時 より深更まで祇園吉花に遊ぶ」 「十三日 夜都踊を見て祇園一力に遊ぶ、老 妓来𠮷に逢ふ、此夜一力の楼上に雑魚寝す」 「十四日 午後二時より再び一 力に遊ぶ、芸子舞子前日と大差なし、来るもの、老妓来𠮷、及び吉代、竹子、 喜千福、舞子は千賀菊、松勇、おふく、岸勇、仲居はおとよさん、おいまさん、 お梅さん、おツヤさん、来𠮷は豪い婆さんなり、喜千福、おふく、岸勇、千賀 菊、おいまさんと庭で鬼ごつこをする、牡丹桜の風に飜るの趣あり、宴はてゝ 祇園の夜桜を見る、来𠮷、おツヤさん、吉代同道、余はおふく、岸勇に手を引 かる、二人はいづれも年十二、岸勇の美おどろくに堪へたり。二人左右より曰 く、ナンゾイヽモンカフトクレヤス、即ち頭大の風船玉を買ふ、群衆ぞろ\/ と余らのあとを踉いて来る」

 「橋上の人識るが如し」とあるのは、そのまま「続風流懺法」の冒頭部分に 一致するし、芸子や舞子、仲居の名も、千賀菊(小説では三千歳)以外は一致 するそうだ。 本井英さんは、当年34歳の虚子と29歳の節、なかなか派手に 遊んだものである、として、この時の軍資金であろう4月15日付の糸宛書簡 に「金70円」の送金を依頼している、今でいえば「約70万円」というところ か、と書いている。