「日本の医学の父」べルツと妻・花2016/12/06 06:29

     等々力短信 第210号 1981(昭和56)年3月15日

 平凡社支援のため(?)、先にモースの『日本その日その日』を推したが、岩 波のためには新書版福沢選集と文庫『ベルツの日記』4冊をすすめる。  「戦前のことは全て悪かった」という時代に育った。 近い過去ほど遠かっ た。 天皇と戦争にかかわることを中心にして、明治、大正、そして昭和20 年までの歴史がすっぽりぬけてしまったのだ。

 明治9年10月25日、来日4か月目のベルツの日記、「現代の日本人は自分 自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養あ る人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでし た』」「『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まる のです』」

 これでは全く戦後と同じではないか。 元勲達の侍医として明治日本の文化 大革命の立会人となったベルツの日記で、欠落した明治の勉強をしたいと思う。

     等々力短信 第211号 1981(昭和56)年3月25日

 お医者さんが未だにカルテにドイツ語らしきものを書いている根源を尋ねて いけば、1871(明治4)年普仏戦争でのドイツの大勝に行き当たる。 それま でイギリス医学を取り入れる方針だった明治政府は、いっぺんにドイツ党にく ら替えした。 それから5年後の1876(明治9)年、ベルツは東京医学校教授 として来日する。

 ベルツは27歳から56歳まで、働きざかりの29年間を日本に送り、「日本の 医学の父」といわれる偉大な足跡を残した。 明治19年、東京医学校が帝国 大学医科大学となり、日本人教師中心に改組された時でさえ、内科の彼と外科 のスクリバだけは残された。 日本の朝野はあげて彼の診療と助言を求めた。

 福沢諭吉の姉で、中上川彦次郎の母お婉の死を、福沢が中津にいる2人の姉 に報じた手紙(明治30年1月22日付)にも、「外国医のベルツと申人をも度々 招待いたし候事も有之、都て手落と申は万々無御座。」とある。

     等々力短信 第212号 1981(昭和56)年4月5日

 ベルツは38歳の明治20年頃、愛知県豊川出身の戸田花(23歳)と結婚し た。 明治22年長男トク(『日記』の編者)が、ベルツ一時帰独中の明治26 年長女ウタが生まれる。 その時の妻花あて、日本語ローマ字書きの手紙の写 真が鹿島卯女著『ベルツ花』に載っている。 「5がつ5にち/マイネリーベ 花/電報はつきまして/おかさんにと/おウタさんに/おめでとう/パパか ら」

 ベルツ47歳の明治29年、このウタが満3歳のお節句を目前に、急死する。  「ハナの態度は、ローマの女のようでした。ハナだけは、病気のあいだ、泣き ませんでしたし、その声は震えてはいませんでした。しかし、その内心はどん なであったか、わたしにはわかるのです。」とベルツは書いた。

 シーボルトの娘で女医開祖の楠本稲がたびたび花を訪ね、2歳で死んだ自分 の孫を父のかたみの器具で解剖した時の苦しさ、つらさを語って慰めたという。

薩道愛之助2016/12/07 06:29

 「O・K・」のこと」(「等々力短信」第432号 昭和62(1987)年7月15 日)を引く前に、アーネスト・サトウについて書いたその前の二回も引いてお く。

     等々力短信 第430号 1987(昭和62)年6月25日

              薩道愛之助

 幕末維新のことを書いた本で、アーネスト・サトウという名前を初めて見た 時、この人は日本人かと思った。 佐藤さんが難船でもして、ジョン・万次郎 のように、外国暮しをして来たのかと考えたのだ。 サトウ(Ernest M. Satow) は天保14(1843)年ロンドンで生まれた。 まだ19歳だった文久2(1862) 年に、イギリス公使館付の通訳見習として、初めて日本の土を踏む。 以後、 通算約25年間を、外交官として日本に駐在し、日清戦争直後の、明治28(1895) 年51歳の時から5年間は、公使として、大英帝国を代表して日本に勤務した のであった。 イギリスが、ヨーロッパ列強やアメリカ以外の国と大使を交わ したのは、日露戦争に勝った日本が最初だったが、それは明治38(1905)年 のことで、初代駐日英国大使は、サトウの次に公使を務めた、クロード・マク ドナルドであった。

 昭和51年10月12日から、朝日新聞夕刊に連載された萩原延寿さんの『遠 い崖――サトウ日記抄』は、サトウの日記や手紙、友人ウイリアム・ウイリス の手紙やイギリスの外交文書などから、アーネスト・サトウの生涯を丹念にた どった未完の力作長編で、現在もなお、萩原さんはロンドンで続きを取材中と 聞く。 私は、この時代と人に興味があり、さし絵を描いている風間完さんの 絵も好きで、第二部終了の昭和54年3月14日の第529回までの切り抜きをし た。 切り抜きやコピーというのは、おかしなものだ。 切り抜いたりコピー をするだけで安心してしまい、読まない場合が多い。 『遠い崖』も、放って あったのだが、あるきっかけがあって、読み始めたら、これがとても面白い。

 サトウという人は、大変な努力家だった。 若さもあったのだろうが、日本 語を学び始めてからたった2年半で、自由自在に使えるようになっている。 明 治維新にいたる幕末の激動期に、イギリス公使館がサトウを擁していたことが、 対日政策上、諸外国にくらべ、どれだけ有利であったか、はかりしれない。 長 州藩の伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)とは、薩道懇(または愛)之助の名 で直接文通し、ギブ・アンド・テイクで倒幕派の情報を的確に掴んでいる。 「先 日より再度御投紙有之、有難く存じ奉り候。然らば薄暑に御座候えども、いよ いよ御機嫌よく入らせられ候段、斜めならず賀し奉り候」といった調子だから、 すごい。 「薩長・イギリス」対「幕府・フランス」という図式で考えてみれ ば、維新回天におけるサトウの役割は、元勲のそれに匹敵する。

力の外交2016/12/08 06:32

     等々力短信 第431号 1987(昭和62)年7月5日

              力の外交

アーネスト・サトウの来日は、どんな時期だったのだろう。 横浜上陸のた った6日後、文久2(1862)年9月14日には、有名な生麦事件が起きている。  翌年には、このイギリス人殺傷事件の、責任を問うために鹿児島湾に入ったイ ギリス艦隊と、薩摩藩が砲火を交える(薩英戦争)。 同じ年には、長州藩が下 関海峡を通る外国艦船を砲撃する事件も起きて、翌元治元(1864)年の英・仏・ 米・蘭四国連合艦隊の下関砲台攻撃に至る。 外国に武力で対抗できないこと を、身をもって体験した薩長両藩は、すばやく親イギリスに方向転換し、この 時期から急速に倒幕運動へと進むことになる。

萩原延寿さんの『遠い崖』で、外交交渉における外国側の姿勢と、日本の対 応を読んでいると、昔も今も変わらないという感じがして、心配になってくる。  力で迫る外国に、日本の役人の対応は、いつも「時間稼ぎ」と「追いつめられ ての譲歩」なのだ。

サトウの上司オールコックは、約20年に及ぶ極東勤務の経験を回顧し、ラ ッセル外相(哲学者の祖父)にあて、次のように書いている。 「日本と結ば れた条約は、すべて日本に強制されたものである。そこで、日本人の性格、制 度、そして政府の上に巨大な変化が生じるまでは、そのようにして成立した条 約を、宗教的禁欲、つまり、手段としての武力の行使を断念することによって 保持できると考えるのは、無益なことである」「われわれの主張や抗議をたえず 無視することによって、われわれを限度に追いつめた場合、かならず武力の行 使に見舞われるという認識を日本人がもつ度合いに応じて、武力行使の必要は 減少するし、消滅もするのである」(『遠い崖』195回)

安政5(1858)年の日米修好通商条約に端を発する、諸外国との条約は、領 事裁判権を認め、関税自主権がないなど、不平等条約であった。 オールコッ クは、そのことを言っている。 そして条約を改正し、完全な主権を持った独 立国になるために、日本は、ほぼ明治という時代の全てをかけて、血のにじむ ような努力を続けねばならなかった。

幕府が貿易の利権を独占し、諸藩がそのうまみを吸えないことも、倒幕の一 つの要因になった。 イギリスの外交文書には「幕吏は煩雑な規則をたてに取 って、自由な商取引をことごとく妨害している」(228回)とか、「制限を挿入 することによって搾取をおこなう日本人の性癖」(232回)といった色あせない 報告もあって、興味深い。

「O・K・」のこと2016/12/09 06:27

     等々力短信 第432号 1987(昭和62)年7月15日

            「O・K・」のこと

 『遠い崖』の序章で、アーネスト・サトウの、重大な秘密が、語られる。  萩原延寿さんは、イギリスの国立公文書館(Public Record Office)にあるサ トウ文書を読み続けている内に、不思議なことに気づくのだ。 サトウの45 年に及んだ外交員生活の経験を、公文書、書簡、日記、覚書などの形で、集積 しているこの膨大な量の文書の中に、当然ふくまれていてもよいと思われるあ る種の書簡が、どういう訳か、見あたらないのである。 サトウは日本をはじ め、諸外国に在勤中、父母はもとより、兄弟姉妹にあてて、実にひんぱんに手 紙を書いているのだが、それらの手紙がサトウ文書にはない。

 萩原さんの仮説は、晩年のサトウが、自分の生涯で出会った何かの記憶を断 ち切るために、それらの手紙を自分の手で破棄したのではないか、というもの だ。 サトウが文久元(1861)年11月、日本へむけて旅立った日から、亡く なる2年ほど前の大正15年12月まで、65年にわたって書きつづけた膨大な 日記だけは、修正や削除の形跡もなく、サトウ文書に残されているのだそうだ。  萩原さんが、サトウの生涯をたどろうとする、この長編の副題を「サトウ日記 抄」としているのも、そこに理由がある。

 サトウ日記の明治17(1884)年10月から11月に、バンコク駐在のイギリ ス公使をしていたサトウが休暇で日本を訪問した記述がある。 そこに、とく にローマ字つづりの日本語で書かれた箇所があり、「O・K・」という女性が登 場する。

 サトウ日記で「O・K・」という略語で表される女性は、武田かねといい、サ トウより10歳年下の、三田伊皿子の高級な指物師の娘であったという。 サ トウと知りあったのは、維新後まもないころと思われ、ふたりの間に、明治6 年幼児のうちに亡くなった女子、長男栄太郎(明治13年生)、次男久吉(ひさ よし・明治16年生)が生まれた。 後に長男は、アメリカで農園の経営者に なり、次男は、日本山岳会の創立者のひとりで、植物学の権威であった武田久 吉博士となる。 サトウは終生、日本に残したこの家族のことを思い、かねに 生計費を送りつづけている。 明治23年、南米モンテビデオからの、7歳半の 久吉への日本語の手紙には「久吉は、おほきくなったら、英語を御まなびなさ れ、又おとっさん留守中は、おっかさまめを大事に致し、好く御咄しを御聞な され」とある。

 岩波文庫『一外交官の見た明治維新』(昭和43年11刷)のあとがき、「アー ネスト・サトウの略伝」には、「彼は、その生涯を独身でおし通し」と書かれて いる。

マードック先生と夏目漱石2016/12/10 06:28

稲場紀久雄さんの『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(平凡社)に、バ ルトンの親友としてマードックが出て来る(176頁)。 「1889(明治22)年 晩秋のある日、マードックが8歳になる一人息子のケネスを連れてバルトンの 官舎を訪ねた。スコットランド出身の気の置けない友人である。」

(ジェームズ・)マードックは1856(安政3)年のアバディーン近郊ストー ンヘイヴン生れ、アバディーン大学で文学士の学位を得て(1880(明治13) 年・24歳)、オックスフォード大学に進んだ。 そこで結婚し、ケネスが生ま れたが、夫人は間もなく亡くなった。 悲しみを紛らわせるためオーストラリ アに渡り、グラマースクールの校長から、ジャーナリズムの世界に身を投じた。  白豪主義の弊害を取材するため香港や広東を回り、その帰途、日本に立ち寄っ た(1888(明治21)年・32歳)。 その時、日本の美しさに心を奪われ、新聞 社を辞職して来日し、第一高等中学校の英語と歴史の教師になった(1889(明 治22)年・33歳)。 夏目漱石(当時22歳)や山縣五十雄(いそお)は、マ ードックの教え子である。 と、稲場紀久雄さんは書いて、漱石の「博士問題 とマードック先生と余」から、漱石がマードックの蛮カラで飾らない人柄を伝 える文章を引用している。

夏目漱石・金之助がマードックの生徒であった1889(明治22)年から22年 後の明治44(1911)年、夏目漱石の博士号辞退問題が起きて、漱石はそれにつ いてのマードックの手紙を受け取るのだ。 その間、二人は顔を合せたことも、 手紙の往復をしたこともなかった。

『漱石全集』の索引で「マードック」を引くと、第11巻『評論 雑篇』「博 士問題とマードック先生と余」(明治44(1911)年3月6日~8日「東京朝日 新聞」)と「マードック先生の日本歴史」(明治44年3月16日・17日「東京 朝日新聞」)という文章があり、第14巻『書簡集』と第15巻『続書簡集』に 「マードック」の名前の出て来る手紙がある。

マードックは1900(明治33)年(44歳)に鹿児島の第七高等学校へ赴任し、 1903(明治36)年(47歳)『日本歴史』第1巻(ポルトガルとの交流に始まる 中世史)を刊行、1908(明治41)年(52歳)に教職を離れたが鹿児島にとど まった。 1910(明治43)年(54歳)『日本歴史』第2巻(中世以前の歴史)、 1915(大正4)年(59歳)『日本歴史』第3巻(江戸時代)書き上げる(刊行 は1926(昭和元)年で、1921(大正10)年65歳で死去の没後。)

明治41(1908)年6月14日付、鹿児島の野間眞綱宛(書簡番号954)は、 「マードツクさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英国 人もあんな人許だと結構だが、英国紳士抔といふ名前にだまされて飛んだもの に引かゝる」とある。大正3(1914)年1月24日付・野間眞綱宛(書簡番号 1775)には、桜島噴火の報に「マードツクさんも無事だらうと思ふ もしあつ たら宜敷いつてくれ玉へ」とある。

明治44(1911)年3月10日付・久内清孝宛(書簡番号1284)は、マード ック先生の日本歴史を受け取ったお礼。 3月14日付・森田米松宛(書簡番号 1289・1290)は、「マードック先生の日本歴史」上下批評の原稿が出来た、時 間の許す限り検閲したい、掲載の節はマードック先生に送るので二部ずつ欲し い、というもの。