防衛大学校と慶應義塾、初代槇智雄校長 ― 2017/01/07 06:40
12月8日の小泉信三記念講座、橋本五郎さん(読売新聞特別編集委員)の講 演「戦後日本と小泉信三先生――没後五十年に際して」は、この日記に12月 23日から3日間書いた。 http://kbaba.asablo.jp/blog/2016/12/23/
その5日後の12月13日、第703回の三田演説会、防衛大学校長の国分良成 さんの「防衛大学校と慶應義塾」で、また小泉信三さんの話を聴くことになっ た。 講演の柱は二つで、「防衛大学校とは何か」という詳細な解説の後、「防 大の原点、慶應義塾との接点―初代学校長槇智雄の挑戦」の話になったからで ある。 以下、大切なことばかりなので、ほとんど国分良成さんのレジメを文 章にする形で紹介したい。
防衛大学校の三恩人は、吉田茂、小泉信三、槇智雄。 吉田の防大構想は、 陸海空統合、科学重視、民間人学校長だった。 そして小泉信三に校長を依頼 したが、東宮御教育参与の小泉は辞退し、槇智雄を推挙した。 吉田と槇の初 面会で就任が決定した。 小泉と槇とは、1933(昭和8)年、小泉の慶應義塾 塾長就任とともに、槇は常任理事(二人いる内の学務担当)に就任し、1946(昭 和21)年まで一緒だった。 小泉は「ルーズベルト」「論語」を多用し、槇は 「チャーチル」、西洋思想を多用した。
槇智雄の経歴は、1914(大正3)年塾理財科を卒業、オックスフォード大学 に留学し、1920年に卒業(政治学)、21年の帰国後、法学部教員となり、24 年教授となった。 国際連盟慶應支部(現慶應国際政経研究会)会長、1925 年体育会理事(34歳)となり、山中山荘建設、体育会諸施設建設に携わる(小 泉は新テニスコートに感激)。 寄宿舎舎監、1933(昭和8)年慶應義塾常任理 事に就任した(42歳、もう一人は堀内輝美財務担当)。
慶應義塾常任理事としての槇智雄は、どのような仕事をしたか。 日吉(大 学予科)の建設、藤原工業大学=工学部建設の実務担当。: 大学関係建物・各 種施設(陸上競技場等各体育会施設)、銀杏並木。 天現寺の幼稚舎建設(谷口 吉郎に依頼)。 英国留学の経験から、寄宿舎建設(1937(昭和12)年完成) へ強い想いを寄せた。: 個室、床暖房、水洗トイレ、ガラス張り風呂→初代舎 監就任。 さらにリベラルアーツ・カレッジへの想い=「気品の泉源、智徳の 模範」(福沢)への想い、礼節重視、も。
1941(昭和16)年太平洋戦争開始、学生と教職員の戦時動員、42年から学 徒動員、槇は予科(日吉)主任として対応した。 1944(昭和19)年帝国海 軍連合艦隊司令部の日吉キャンパス移転、寄宿舎は司令部作戦室・士官宿舎と なった。 地下壕建設、海軍との交渉は槇の役割だった。 最大の戦禍を受け た慶應義塾 : 日吉キャンパスの破壊、小泉・槇の落胆。 1947(昭和22)年 1月小泉塾長退任とともに常任理事を退任した。
上に述べた吉田茂の防大構想のもとは、「今日は民主主義の時代である。多く は昔のままではいかぬ。士官教育また然りである」で、腹心・辰巳栄一(元駐 英武官、元陸軍中将)のアドバイスも受けた。 吉田は、防大に計7回(総理 時2回)来校していると、麻生太郎副総理に聞いた。 小泉信三は10数回来 校しており、小泉信三著『任重く道遠し―防衛大学校における講話』(甲陽書房・ 1965年)がある。 そこに「槇智雄さんは私の多年の親友であり、私が十年余 り慶應義塾の塾長をしておりました時に、槇先生は・・・副塾長のような位置 にいて終始私を助けられた無二の親友であります」(93頁)。
槇智雄著『防衛の務め』(中央公論新社・2009年)には、小泉が槇に「防衛 大学校長の仕事は気の毒だ。・・・国防のごとき大切のことに世間は冷ややかで ある。軍閥の復活だといい、学生などにも悪口雑言を浴びせる。さぞ気苦労の 多いことであろう。心から心労ねぎらい申す」(303頁)と言ったとある。
槇は小泉の塾長訓示(一、心志を剛強に容儀を端正にせよ。一、師友に対し て礼あれ。一、教室の神聖と校庭の浄化を護れ。一、途に老幼婦女に遜(ゆず) れ)に敬意を表し、「塾長時代の先生は、持するところ高く、気性も強く、理路 整然としてことばの切れ味も鋭かった。人はこれを尊敬した。しかし晩年の先 生については、英語のmellow(円熟)という字を思わせる」(同299頁)と、 書いている。
「防衛大学校校長としての槇智雄」については、また明日。
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