槇智雄さんの小泉信三さん追悼文2017/01/09 06:24

 国分良成さんの講演を聴いた後で、小泉信三さんと槇智雄さんの関係をあれ これ考えている。 『三田評論』652号、昭和41(1966)年8・9月号「小泉 信三君追悼記念号」に、槇智雄さんの「塾長時代の一面」という追悼文があっ た。 全文を引きたいところだが、特にいくつか、紹介しておく。

 「後年私は小泉先生の推薦をうけて、新設の防衛大学校長に就任して、その 創設と教育に十二年余を過ごした。この間常に先生を相談の相手と心得ていた が、むしろ無言の激励を常に強く心に感じていた。同時に身に覚えるのは、先 生の学生訓陶を身近かに見聞していた経験を持つ幸運であった。防衛大学校は その教育の目的の性質上、どうしても道義心と勇気、規律としつけ、これらを 民主主義の旗の下に身につけさせなければならなかった。想を練れば、その背 後に先生あるを拒めなかったし、ものを言えば、その語った後に、これは小泉 調であったと気付いてハッともし、その影響の強さに、みずから感心せずには いられなかった。」 その後で、槇智雄さんは(一昨日出て来た)「塾長訓示」 を引いている。

 「先生の塾長時代の世相は、時を経るとともに重苦しさを増して行った。」「や がて、日支事変は大した意味も持たないで深淵に押し流され、制動を失った車 のように転落して行くばかりであった。われわれの教育の周辺にも次々と、目 まぐるしい変転が訪れ、殊に全体主義は、恐喝的の暗雲を捲いて襲いかかるの を覚えた。この時、記憶する一事件があった。それは陸軍士官学校の教科書に、 自由主義を誹謗した後、福澤諭吉を日本の国体を汚したものとして記述する文 章を発見した時のことである。塾長とともに、この教科書を読んでいたと思う が、先生は「これをこのままにすることは出来ない。たとえ慶應義塾をつぶし ても、しようがないじゃないか」と、ただならぬ気配であった。正直のところ、 私は大変だと驚いた。幸いその後、この件はだれ言うとなく再び口にすまいと して、ことなく済んで行った。」

 やがて、開戦の日が来た。 「早朝まだ開戦を知らずに登塾して塾長室に入 ると、十四年に開校した藤原工業大学の藤原銀次郎理事長が、すでに来ておら れ、沈痛な面持ちで対談していられた。」「藤原氏は「もう、聖断を仰ぐことも なくなりましたね」と呟かれた。この「聖断を仰ぐ」と言うのは、日々に緊迫 する情勢に苦悩する小泉先生が、戦争回避の途は、この機に及んでは、この外 に方法はないと、頻りにいわれていた言葉であった。先生自身に聞かせる祈り にも似た文言であった。いうまでもなく先生は、生涯を貫いた愛国者であり、 国家独立の熱烈な擁護者であり、幾度となく福澤諭吉の愛国心について語り、 書きもした人である。しかし、当時の開戦論者の同調者では、断じてなかった。 むしろばかばかしい話だが、当時の禁句の非開戦論者であった。先生はこの頃、 急に山本五十六元元帥と親交を結んでいた。同大将の対米戦避くべしとする説 も周知のことである。しかるに、この二人の戦争回避論者は、ひとたび干戈(か んか)を交えるに至っては、戦争の遂行に全力を傾けたのも、奇しくも一致す る運命だったと言うより外はない。」

 「戦時中の出征の卒業生や学生に対する、先生の心くばりには、慈悲の権化 でなかろうかと思わせるものがあった。手の届く処、心の及ぶ限り、一人一人 に尽すのであった。次々と暇乞いする学生に、激励もし、注意を与え、家族に ついても問う。」

 「しかし、ついに戦争は、敗北して終った。塾にも、先生にも、われわれに も、大きな傷跡を残して終ったのであった。殊に先生は、戦いに破れ、ひとり 息子の令息を戦争に失ない、焼夷弾に家は焼かれ、大きな火傷を負うた。また 塾長の職も退かれた。」

 この頃のある日、静養されている先生を訪問した。 「私はわれわれは敗れ たが、よく戦って義務を尽したのではないでしょうかと語った。しかし、先生 の言葉はその当時の私には意外で、「そうだったろうかね。僕は今米国の本を読 んで、戦時中強硬に、堂々と戦争に反対した人々に感心している」といわれた。 この時程、私は何か先生の淋しげなのを感じたことはなかった。」