激動の時代を実学の精神で2017/01/14 06:38

 『学問のすゝめ』15編には「信の世界に偽詐(ぎさ)多く、疑の世界に真理 多し」(無条件に物事を信じる社会には偽りが横行し、疑問を自由に持てる社会 には真理が発達する、という意。(『福澤諭吉事典』))とある。 ガリレオが天 文の旧説を疑って地動説を発明し、ニュートンが林檎の落ちるのを見て重力の 理に疑いを起こした。 時の指導者は、西洋風を真似しようとする。 しかし、 西洋化が絶対ではない、とした。 今日でも、海外の事例を、鵜呑みにして、 生半(なまなか)に取り入れる事例が多くあるが、成功しない。 私の専門の 労働経済学の分野にもある。 従来の終身雇用制を廃して、海外のように雇用 をひたすら流動化すべきだという議論がある。 しかし、教育訓練は長期雇用 だから可能になる。 転職も、なかなか難しい。 マイナス部分を改善する修 正をし、長期雇用制度をなくしてはならない。 観察によって問題の真の姿を 確認、理解し、仮説を立て、システマティックに問題解決の筋道を考えるのが、 福沢先生の実学=実証科学(サイヤンス)だ。(「慶應義塾紀事」『全集』19巻 415頁、「本塾の主義は和漢の古学流に反し、仮令(たと)ひ文を談ずるにも世 事を語るにも西洋の実学(サイヤンス)を根拠とするものなれば、常に学問の 虚に走らんことを恐る。」)

 『福翁百話』(十三)「事物を軽く視て始めて活潑(発)なるを得べし」には、 「人間の心掛けは兎角浮世を軽く視て熱心に過ぎざるに在り」とある。 「内 心の底に之を軽く視るが故に、能(よ)く決断して能く活潑なるを得べし」。 肩 の力を抜く。 回りをよく見る。

 『福翁百話』(百)、十善十誡の清僧が「衆生を法の門に導くは甚だ美なれど も、若しもこの衆生が真面目に教(おしえ)を奉じて文字(もんじ)の如く善 男善女に化し去らんには、一国は坊主と尼との群衆にして、啻(ただ)に家畜 漁猟の不用に属するのみか、衣服飲食の物より風流遊楽の事に至るまで都(す べ)て顧みる者なくして、人間は唯生れて死を待つのみならん、頗(すこぶ) る淋しき次第なれども、衆生の頑愚(がんぐ)容易に法門に入らず、信ずるが 如く疑うが如く、或は自身の煩悩を喞(かこ)ちつゝ円満に至るを得ずして中 途を彷徨するこそ幸なれ。」 「公智」(物事の軽重大小を正しく判断し、優先 順位を決める)、活発な精神を持つ人間の働きが必要だ。 絶妙な福沢先生のバ ランス感覚である。 「彼方(あちら)立てれば此方(こちら)が立たず」の 「トレード・オフ」関係ではない。

 開戦直前、ご下問を受けた米内光政は、「ジリ貧を避けんとしてドカ貧になら ないようご注意願いたい」と言ったという。 戦さは避けられたかもしれない。

 さまざまな判断を求められる厳しい状況に対して、激動の時代だからこそ、 今、何が大切かを自分の頭で考える科学(学問)の方法論、時流に流されない、 論理と実証にもとづく実学、知的強靭さが必要だ。 慶應義塾は来年、中津藩 の塾から独立して慶應義塾となった命名150年を迎える。 教育、研究、医療 を通じて、実学の精神を実現するのが、慶應義塾の使命である。 清家篤塾長 は最後(となるらしい)の年頭挨拶を、そう結んだ。