幕末の水戸と佐倉 ― 2017/01/15 06:37
暮から乙川優三郎さんの時代小説短篇集『闇の華たち』(文藝春秋)を読んで いた。 その一篇「面影」は、「江戸の留守居役へ佐藤尚中(たかなか)の書状 を届けて一泊し、友人の立見(たつみ)と上屋敷を出たのは年の瀬の昼前であ った。」と始まる。 昨日は芝の薩摩屋敷が焼討ちにあったというから、時は慶 應3年12月26日(1868年1月20日)である。 佐藤尚中の名前には憶えが ある、順天堂佐藤泰然の養子の佐倉藩医である。 半蔵は四年前(文久3(1863) 年)に藩命で江戸から引き揚げ、国許佐倉の原野に入植していた。 その前の 年(文久2(1862)年)に幕府が参勤交代を三年に一度に改め、大名妻子の帰 国を自由にした。 幕命で諸藩は江戸詰の藩士を減らした。 佐倉藩でも、士 分百数十人が帰国したが、城下に屋敷地がないため、山林を開墾して原野住居 を与えることにしたのである。 家を建て耕地を得るまでの二年余り、水戸浪 士の騒擾がある度に出陣し、帰ると鋤鍬を持つ暮し、家中の仲間で麦や蔬菜よ りも簡単な茶の栽培を始めていた。
剣客の立見は、江戸に残って、国の行く手を見つめている。 「昨日の焼討 ちで、薩摩は兵を出した幕府や庄内を潰す理由をもらったようなものだ、もと もと紛争の火種を作って挑発したのは薩摩の方だし、今度は本気で出てくるだ ろう」 今度と立見が言ったのは、七年前(安政7(1860)年3月3日)の井 伊大老暗殺のときも薩摩は水戸浪士とともに起つはずだったからである。 当 時、二人は君命で水戸の動きを探索していた。
主君の堀田正睦(まさよし)はペリー来航に伴う難局に際し、安政2(1855) 年10月老中首座となり、開国派としてハリスの要求に応じて日米修好通商条 約調印の勅許を得るため、安政5(1858)年朝廷の説得に努めたが失敗、その 直後に彦根藩主の井伊直弼が大老に就任した。 井伊はやがて勅許のないまま 条約を締結、開国和平をすすめ、将軍継嗣問題でも攘夷派の思想家や大名の推 す一橋慶喜を退けて紀州慶福(よしとみ)を擁立した。 この事態に激昂した のが水戸老公の徳川斉昭(なりあき)、富国強兵を目指す攘夷派の旗頭で、一橋 慶喜は彼の七男だった。 堀田正睦は、同年6月老中を辞任した。
「外国の要求を穏便に断りながら、その間に武力を強化して攘夷に転ずると いう斉昭の詭策は実現性に乏しく、かつて正睦も猛烈に反論したので、水戸と 佐倉は利根川を挟んで対峙しているのも同然であった。水戸とは学問も思想も 士風も違った。神道と儒学と国学を基本にして君臣の名分を厳格に維持し、国 体の強化を計り、天皇の下に民心を糾合すべきだとする水府の学に対して、佐 倉は医学を中心に西洋から積極的に学んで「西の長崎、東の佐倉」と言われる 学都であった。自然、危局のとらえ方も違った。」
「国策としての開国に動いた大老とことごとく対立して永蟄居になった水戸 の老公にも冷静に時代を見る目があったとは言えない。開国は誰が為政者にな っても実現しなければならない時期にきていたし、攘夷ほど危険で感情的なも のもなかった。けれども有志の情熱を掴むのは尊攘論で、水戸の急進派をとめ ることは誰にもできなかったのである。諜報から処分へと追いつめておきなが ら脱藩を許した結果、たった十八人の浪士に大老を殺されてしまった。しかも 彼らを動かしたのは変革の志というよりも私憤から生まれた危機感であるよう に思われた。それは諜報にあたった者の共通の感想だろう。」
「そこからはじまった混乱がとうとう幕府を倒し、多難な国事を無視して暴 れてきた尊攘派が未来への舵を握ろうとしている。立見がおかしいと思うのも 当然で、実現性のない空論で幕府を翻弄し、国を滅ぼしかねない暴挙を繰り返 した挙げ句、武力で実権を手に入れようとしている。むしろ幕政にも欠点はあ ったが、身を退いてなお討たれるほどのものではないだろう。この十年の彼ら の努力を批判して失政というなら、新政府は王政復古とともに本願の攘夷を実 行して滅ぶしかない。」
ここを読んで、私は、当時福沢諭吉も同じ気持だったのだろうと思ったので ある。
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