羊遊斎の雪華文蒔絵櫛2017/01/16 06:29

 「冬の華」と題する一篇が、乙川優三郎さんの『闇の華たち』の最後にある。 越後の武頭(ものがしら)と郡奉行を兼ねる二百石、小谷忠治の二男の文礼(ぶ んれい)は、両親の用意した資金で長崎に三年遊学し、西洋医学を修めた。 国 許に帰る途中、立ち寄った江戸は栄養失調と麻疹に冒された人々で溢れていた。  藩邸も病人の巣で、藩医の指示で三つの藩邸を巡り、幼い世子(せいし)をは じめ家中子女の治療に当たった彼は、療功を認められ、重宝された。 俸禄は なかったが報奨金を給わり、築地の中屋敷に仮の家を宛がわれて、一年半を過 ごす。 中屋敷の女中に血を恐れない娘がいて、助手として使ううちに、ひと りで応急処置ができ、優しい励ましと微笑が病人の不安を緩和する、稀な才能 に気づいた。 その橘(やち)は漢方医の娘だった。 二人の信頼関係はやが て熱い感情を育み、彼は恋をし、身分の違う町人の娘であったが、国に連れて 帰りたいと思った。 相手の父親に許しを請うと、「どうぞ、お好きなように」 と、あっさりした一言。 それだけ娘の人格に自信があったのだろう。

 帰国して一年が過ぎたころ、待望の男子進太郎が生まれて、夫婦は円満だっ た。 文礼は独立して藩から三人扶持をいただく無足医師となっていたが、小 さな医師の内緒は苦しかった。 橘は、持ち前の明るさと、憧れの江戸育ちで、 身仕舞いがよく、垢抜けて、優しいから、人々の心を掴んでいき、老人や女た ちが彼女を頼るようになるまで長い時間(とき)はかからなかった。 「奥さ ま」と人は彼女をそう呼んだが、藩が認めた正妻ではなかった。 男が武家で ある限り、町人の妻は許されないし、子も妾腹ということになるので、家を継 がせるにはいつか惣領に願い出て許しを待つことになる。

 文礼は午後を往診にあてていたが、快方に向かわない患者もいて、無力な医 療を責められる気がした。 大工の芳藏もそのひとりで、棟上げ中に貧血を起 こして落下、下半身の自由を失って久しい。 大工仕事ができないことで、捨 て鉢になっていて、いたずらに苦しみ、無為な日々を重ねている。 仕立屋の 儀兵衛の十六になる娘芙美は、肺病で裏庭の小屋で寝ている。 文礼は、杜の 見える広い寺の風の通る座敷に移ることを勧めたが、娘は仕立物をする父の気 配が好きだという。 死を自覚していて、死んでまで親を泣かすのはつらいの で、死んだら、早く忘れてくれと親に伝えてほしい、と文礼に頼む。 死んだ ら雪になる、母の髪や父の肩に舞い降りて、暖まったら解けてゆきます、と言 う。

 一年余り前、実家で文礼の兄が出奔した。 兄は妻帯していたが子はなく、 離縁して半年が過ぎていた。 そろそろ家督を継ごうとする矢先のことだった。  父は小谷の家を続けるために、八歳の進太郎を養子にすると言い出した。 文 礼は、父への恩義、進太郎の将来を考えると、断わることができなかった。 だ が橘の落胆ぶりは哀れだった。 肉親から遠く離れ、妾婦として生きる女にと って子は分身であり、子供以上に夫婦を証(あか)すものもない。 酷薄すぎ たと文礼は気づいたが、手後れであった。

 二月が過ぎても橘の落ち込みは変わらず、淋しくて仕方がないので、しばら く江戸へ帰らせて下さい、と言う。 十年近く一度の里帰りもしていなかった ので、文礼は承知した。 けれども彼女の欠けた家は一日で変わってしまい、 自分の方が耐えられるか心許なかった。 妻が帰ってくるかどうかもわからな かった。

 橘は数日しか江戸にいないで、帰って来た。 明るく、旅の疲れも見せず、 江戸帰りらしく、髪に新しい櫛を挿していた。 櫛の文様は、雪の結晶、雪華 文と呼ばれる美しい意匠だった。 かつて古河藩主の土井大炊頭(おおいのか み)利位(としつら)が観察して描いた「雪華図説」のものに似ていた。 文 礼は、のちに鈴木牧之(ぼくし)が著した「北越雪譜」で、その写しを見てい た。 橘が江戸ではもう古い意匠だというのを聞いて、自分でも信じられない ことを言った。 「その櫛だが、わたしにくれないか」

 雪の華は死んでゆく娘の夢そのものであったし、それを橘が運んできたこと にも不思議な縁を感じた。 桶町の儀兵衛の娘に見せてやりたい、親には形見 になるかもしれないと話すと、「どうぞ」と橘は簡単に言い、髪から外した櫛を 手拭きで清めた。 羊遊斎と蒔絵銘がある。

 次の朝、文礼は桶町へゆき、娘に会う前に芳蔵を訪ねて、雪華文の蒔絵櫛を 見せるつもりであった。 どうせはじめるなら新しい世界に踏み出してほしい、 侍の二男に生まれた文礼もそうして医者になった。 若い娘が死後の生を夢見 て一生の終わりに手にする櫛は、その気になればどのようにも生きられる男の 気持ちを動かすはずであった。 雪に埋もれた小路を歩いてゆくと、いつにな く確かな幸先(さいさき)が、文礼の心を軽くしてゆくのだった。