江戸の町を戦火から守るミッション ― 2017/01/20 06:25
ドラマは、新政府軍が江戸総攻撃を決行するとした慶應4年3月15日から 数えて、その何年前、何か月前、何日前に当たるかを、前面に出して、展開す る。 愛する江戸の町が戦火で焼き払われるのを防ごうとして、アーネスト・ サトウは動きまわるのだ。
サトウが初めて西郷隆盛に会ったのは[その1年3か月前]の慶應2年12 月の兵庫、徳川慶喜が将軍宣下にまでこぎつけた直後だった。 サトウは西郷 を、のっそりしているが、大きな黒ダイヤのような輝く眼をしていて、口をき くとき浮かべる微笑は、たいへん親しみがあった、日本で一、二を争う傑物、 と見る。 ドラマで、西郷は“青い目の志士”が現れたという誉れは謗(そし) りのもとであり、「金もいらん、名もいらん、命もいらんという人は始末に困る、 そういう人物でないと、国家の大業はなし得られぬ。そうしたひとかどの人物 がおいどんの目標」と言う。
[その1年前]慶應3年3月、勝海舟は泉岳寺前のサトウ邸を訪れ、碁を打 っている。 「おいらは幕臣である前に日本人だ。幕府が傾いちゃあ、この国 はお終いよ」などと言う。 3月28日、慶喜は英・仏・米・蘭の公使と大坂城 で公式謁見する。 英公使パークスは慶喜を、毅然とした態度と親しみを覚え る態度が同居し、まだ31歳の若さ、大きな期待を抱かせる、とした。 イギ リスの外交政策のゆらぎが、倒幕勢力に影響を及ぼした。 サトウは告白する、 「幕府にも巻き返しのチャンスがあった、それを断ち切ったのは、私」と。
[その8か月前]慶應3年7月、サトウは大坂で西郷と会う。 5月の兵庫 開港勅許を受けて、西郷は「兵庫開港はイギリス人がたいへん骨をおったが、 開港後は、幕府が大坂の豪商を巻き込みフランスと組んで、大名を締め出して 貿易を独占し、フランス人が利益を得ることからみると、イギリス人はフラン ス人のつかわれものか」と、けしかけた。 サトウは、イギリスはそれ相応の 援助は惜しまない、と述べた。 西郷は大久保利通への手紙に、「サトウはまん まと憤激、軍事協力まで口にした」と書いた。
[その5か月前]慶應3年10月、討幕密勅薩長両藩に降る。 大政奉還。
[その3か月前]慶應3年12月7日(1968年1月1日)のアーネスト・サ トウの日記、“I want to take the chief up to Kioto to act as mediator & prevent the Japanese cutting each other’s throats.”「私はイギリス公使を 京都へ連れて行って、日本人同士が殺し合いをするのをやめさせる調停を行 いたい。」
[その2か月前]慶應4年1月1日、鳥羽伏見の戦。 慶喜は江戸に帰り、 7日慶喜追討令が出される。 江戸の町が戦火で焼き払われる危機が迫り、 サトウはミッションを開始する。 (つづく)
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