「ばあさんの理屈」「十段目は鉄砲芝居」2017/01/25 06:24

 『明治維新の舞台裏』「大政奉還か挙兵討幕か」の章に、20日に書いた、慶 應3年7月に大坂でサトウと会った西郷が「イギリス人はフランス人のつかわ れものか」とけしかけた話が出てくる。 こうした策略は西郷の得意とすると ころで、彼も幕府の兵庫商社の背後には、フランスの対日貿易独占計画がある ことを見抜いて、イギリスをフランスと幕府にけしかけようとしたのである。  サトウは、もしフランスが幕府に援兵を出すようなときは、イギリスも警備と 称して出兵すれば、フランスは幕府に援兵を出すことができなくなるとして、 これについて相談をもちかけてきた。 いささか薬がききすぎたので、西郷は、 「日本の国家の体面を保持していくうえから、外国人へ相談するのは面目ない」 といって、この話を打ち切ってしまった。 元来、西郷がサトウをけしかけた のは、イギリスをフランスから引き離し、フランスの幕府援助を押えようとす る策略であったから、ここまでサトウの真意を問いただせば、それでよかった のである。

 8月15日、長崎へ行ったサトウは、長州の木戸孝允、伊藤俊輔(博文)と、 玉川という茶屋などで会った。 サトウは木戸に「おいおい大名がたも上京し て、いろいろ意見をのべられたそうですが、さだめし公論は行なわれますまい。 一体、西洋では、昔から公論と思いこんで天下にとなえ、行なわれないとて、 そのまま捨ておくのは、ばあさんの理屈といって、男子は好みません。日本の 今日の建言というものは、ちょっとこのばあさんの理屈という気味があるよう に思われます」と、決起をそそのかした。 このサトウの一言は、木戸に大き な衝撃を与えた。 20日の晩、木戸は土佐の坂本竜馬・佐々木三四郎(高行) と会って、これを伝え「イギリスの一通弁官からこんなことを聞くのは、実に 日本男児の恥辱だ。今度のことが成功せねば内外にたいして面目ない。おたが いに奮発しよう。大政返上のことはむずかしいかもしれぬ。七、八分どおり運 べば、そのときの模様で十段目は鉄砲芝居をするほかない」などと語りあった。

 「このようにパークスは、わが政局の転換における決定的なこの瞬間に、自 分自身およびサトウなどの有能な幕僚を通じて、西南諸藩の指導的な人々と緊 密な連絡を保ったので、「競争国にたちまさって、いっそう深く日本国民の脈を はかり、かついっそうよくその政治上の容体を診察」することができた。そし てこのことは、駐日イギリス公使館当局をして幕府倒壊・新政府成立の時期に、 的確な対日政策を打ち立てることを可能にした。」

 慶應3年10月、討幕密勅薩長両藩に降る。 大政奉還。

極北の人情噺<等々力短信 第1091号 2017.1.25.>2017/01/25 06:26

 伊丹十三に『日本世間噺大系』という本があったが、乙川優三郎さんの短篇 小説集『太陽は気を失う』(文藝春秋)を読んで、ここには世間噺があると思っ た。 その一篇「日曜に戻るから」、定年退職した地方公務員の園井は外房で憧 れの田舎暮しを始めるが、やはり定年まで勤め上げた都会派の妻は東京に近い 町を出るのを嫌がった。 それぞれ自由に、別居することにして2年、園井が いつも海を眺める広場のテーブルで、犬を連れ手帳に詩を綴っている婦人と知 り合う。 夫の残してくれた本を読み、真似事で詩を作るようになったが、ま だまだだと婦人は、「でもね、たしかカナダの人だったと思うけど、三十一年間 でたった十六の短篇しか書いていない作家がいるの」と言った。 次に会った 時に聞くと、その作家の名前は「アリステア・マクラウド」だった。

 アリステア・マクラウドの十六の短篇の後半八篇、『冬の犬』中野恵津子訳(新 潮社)を読んだ(前半は『灰色の輝ける贈り物』)。 作者は1936年生れ、作 品の主な舞台であるノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島で育つ。 きこり、 坑夫、漁師などで学資を稼ぎ、博士号を取得、大学で英文学を教えた。 ケ・ ブ島は、『赤毛のアン』のプリンス・エドワード島の東側にある。 『赤毛のア ン』を読んでいないので知らなかったが、北海道より北、厳冬の苛酷な自然の 中だ。 ノヴァ・スコシアはニュー・スコットランドの意、18世紀から19世 紀にかけて、スコットランドのハイランド地方で行われた強制的立ち退き(ク リアランス)によって、多くの移民がこの地域にやってきた。 マクラウドの 作品に登場するのは、そうしてこの新天地の島に住みつき、カナダ一の生産量 を誇った炭坑や豊かな漁場、牧場や森林で働いてきた人々と、その子孫達だ。

 「完璧なる調和」のアーチボルトと呼ばれる男は春、また1年生き延びたと 思った。 78歳。 若い時に自分で建てた、山頂に近い素晴らしい眺望の家に 1人で暮している。 同い歳の彼女と、お互いに夢中になったが、家が完成す るまで結婚しないと告げ、双子の弟と設計をし、木を伐り、それを馬に運ばせ、 製材用具を使って、伐り出した丸太を建築用の板にして建てた。 二人の結婚 生活は熱烈で、お互いにますます夢中になった。 3人の娘にも恵まれて5年 目、彼が4番目の子供のために稼ごうと伐採場で働いていた大雪と強風の日、 家で月足らずに出産した妻と初めての息子となるはずだった子供が死んだ。  長い年月の間、彼はよく妻の夢を見た。 彼女は歌を聞かせ、その歌の澄みき った美しさに背筋がぞくぞくした。 彼は1960年代に民俗学者によって「本 物のゲール(ケルト)語民謡の最後の歌い手」として発見される。 たいてい のことはあきらめて受け入れるようになったが、妻の死だけは、今もあきらめ られなかった。