パークスが明治維新で演じた役割 ― 2017/01/26 06:33
『明治維新の舞台裏』「徳川政権の終末」の章に「パークスの天皇政府支持」 という節がある。 慶應4年3月3日、英公使パークスは天皇と対面した。 サ トウとミットフォードが同行していた。 これは「天皇政府にとって「万歳」 であると同時に、パークスにとっても「万歳」であった。山階宮を通じて伝え られた少年天皇の言葉にたいする回答で、パークスは「此節貴国に於て全国一 致の御政体を立てさせられ、万国の公法を基根と遊ばされし故、追々外国交際 盛なる儀必然と存じ奉り候」と祝福している。」
後に、「サトウはパークスが明治維新に演じた役割について、「もしも彼が 1868年の革命において、ちがった側についたなら、そして、その同僚(各国公 使)の大部分とまったく同じ行動をとったなら、王政復古の途上には、ほとん ど測るべかからざる困難がよこたわっていたことであろう。そして内乱は、け してあのように急速には終らなかったであろう」と評価している。」
「パークスからの支持を受ける代りに政府の首脳は、パークスのいうところ に「唯々諾々」であった。三月十五日、政府は五札の掲示を出して、政府の基 本的政策を人民に示したが、その第四札はパークスの強い要求をそのままに作 成された布告であった。すなわち、外国人を殺害したり、または外国人に不作 法の行為をするものは、士分のものとても、士籍をはぎとって厳刑に処する、 というのである。」
3月15日に予定されていた江戸城総攻撃を前に、政府軍との交渉に際して、 勝海舟はすでに「伝家の宝刀」ともいうべき海軍力の行使をちらつかせていた が、さらに最大限に利用しようとしたのはパークスである。 サトウは、パー クスに同行して兵庫から横浜に帰った翌日の3月9日、江戸に出て来た。 「そ れ以来彼は、暮夜ひそかに勝をおとずれたという。そういうわけで、サトウを 介して勝とパークスの間には、意志の疎通があったと思われる。」
そして13日、東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎が横浜でパークスと会見し、 江戸城総攻撃への了解を得ようとして、意外な反対表明を受ける。 パークス は、新政府の旧幕府にたいする過酷な処置が、旧幕府の絶望的反抗を誘発し、 内乱を拡大しかつ長びかせることを、決して望まなかった。
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