勝海舟、パークスの新政府への影響力を利用2017/01/27 06:38

 『明治維新の舞台裏』「江戸城明渡し」の節では、慶應4年3月14日の第二 回西郷・勝会談で勝の出した修正案を「嘆願書」と書いている。 西郷はそれ を大総督に取りつぐことを約束し、それから翌日の攻撃中止を指示した。 西 郷は江戸を出発、途中、駿府の大総督府に立ち寄って報告したうえ、京都に急 行した。 20日、西郷が京都に着くと、ただちに三職(総裁・議定・参与)会 議が開かれ夜半に及んだが、勝が提出した嘆願書を大幅に採用した徳川処分案 が決定された。 このとき、参与としてこの会議につらなった木戸孝允は、「世 間多くは、眼中徳川氏のみあるならずんば、眼中只欧洲あるのみ」と書いてい るそうだ。 眼中徳川氏しかないような徳川処分案(慶喜死罪論は多分にジェ スチュアだが)を主張していた西郷・大久保が、ひとたびパークスの強硬態度 に接すると、たちまちにその主張を急変させてしまう、その「欧州一辺倒」の 態度を、まことに木戸らしい鋭利な皮肉で批判しているのである、と石井孝さ んは書いている。

 西郷の留守中も、勝はイギリス側との接触を保った。 21日、勝はサトウに、 パークスが影響力を行使するよう懇請し、27日には、パークスおよびケッペル 提督と会見している。

 一方西郷は、この処分策をもって21日、ふたたび京都を出発し、駿府まで 来ると、パークスとの会見をもとめるサトウの書簡がとどいていた。 勝が手 をまわしていることを察知した西郷は、江戸への途中、4月1日、横浜でパー クスと会見した。 西郷が慶喜の処分方法を話すと、パークスは、まことに至 当な処分で一言も非のうちどころがない、とほめた。 「処分策を徳川側に伝 えるまえに、まずパークスに内示して、了解を仰ぐとは、実に木戸のいう「眼 中只欧洲あるのみ」であるが、またこのくらい、パークスの政局にたいする圧 力は強かったのである。」

 「こうしてはじめ西郷が要求した無条件降伏の線は、相当の大藩としての「徳 川藩」の存立を保証する条件付き降伏の線に変えられた。これは、パークスの 天皇政府にたいする影響力を大きく利用した勝の大きな成功であった。」

 こうして4月11日、歴史的な江戸開城の大団円となる。