『遠い崖』はサトウの関与に冷ややか2017/01/28 06:34

 つぎに萩原延壽さんの『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫)「7  江戸開城」であるが、問題の慶應4年3月の時期、サトウの日記に空白がつづ いているため、江戸でのサトウの活動の詳細を知ることができないことを、残 念だという。

 パークスは兵庫から横浜に帰った翌日の3月9日、サトウを江戸に派遣し、 情勢探索にあたらせた。 サトウが江戸にいた一週間は、まず山岡鉄太郎(鉄 舟)が東征軍の慶喜への降伏条件を駿府から持ち帰り、二度にわたる西郷・勝 の折衝(会談)が行なわれ、その結果西郷の決断によって、3月15日に予定さ れていた東征軍の江戸総攻撃が延期されることになった時期にあたっている。

 3月16日付で、サトウが探索結果をパークスに報告したものをみるかぎり、 「サトウはまだこの西郷と勝とのあいだですすめられていた工作に気づいてい ない。サトウは後年の回想録『一外交官の見た明治維新』の中で、「わたしの主 な情報源は、かつて徳川海軍の総指揮官であった勝安房守であった。わたしは 人目を避けるために、ふつう暗くなってから勝を訪ねた」と書いているが、こ れは、もう一度横浜から江戸へ出てきてからのことであろう。実情は江戸に入 った当初、いったいだれが東征軍の矢面に立つ徳川側の最高責任者であるのか、 サトウにもただちに察しがつきかねたのではないか。」

 他方、この一週間に、「勝の側からサトウにはたらきかけ、サトウを通じて、 新政権にたいするパークスの影響力を利用しようとした形跡も見られない。勝 がこの段階でそういう動きをしたという説もあるが、それはすこし先の時期の 勝の発言を踏まえての、根拠のない類推だと思う。」「ともかくこの時期に勝と サトウの接触はなかったようである。」

 萩原延壽さんは、そう記述して、その間の経過を主として「海舟日記」に寄 って書いている。 高輪の薩摩藩邸で開かれた第一回西郷・勝会談にふれた後、 「前年来、サトウはこの高輪の薩摩藩邸に近いところに家を借りており、この ときもその家に住んでいたものと思われるが、この会談に気づいていない。い や、先に紹介したサトウの報告の中の、「総司令官の有栖川宮は、幕僚とともに、 まだ(中略)沼津にいるとつたえられる」ということばから察すると、サトウ は西郷が江戸に来ていることも知らなかった模様である。もしそれを知ってい れば、サトウはなんらかの手段を講じて、西郷との接触をはかったであろう。 これまで何度も見てきたように、サトウと西郷の関係は、サトウと勝の関係と はくらべものにならないほど昵懇なものであった。」

 3月16日、サトウは3月9日以来の江戸での見聞をまとめ、パークスへの報 告を書いたが、「そこにはまだ西郷と勝の会談のことも、江戸攻撃の延期のこと も登場してこなかった。」

 「こうしてみると、三月十三日、十四日の両日の、西郷と勝の会談と、サト ウの関係は皆無であると言う他はない。」 「サトウは関係なかったにしても、 じつは横浜にいたパークスの影響力が西郷と勝の会談におよんでいたという説 がある。いわゆる「パークスの圧力」と呼ばれるものであるが、つぎにその実 態がなんであったかを見てみよう。ただし、この点についてのパークスの側の 史料も乏しく、あまり確定的な答えは出せないことを、あらかじめお断りして おきたい。」 (つづく)