萩原延壽説は「パークスの圧力」なし2017/01/29 07:19

 萩原延壽さんは、横浜のイギリス公使館で木梨精一郎がパークスと面会した のを、慶應4年3月13日の第一回西郷・勝会談の当日でなく、3月14日、第 二回西郷・勝会談の日であった公算がつよいとする。 3月14日説をとる「岩 倉家家蔵文書」の記述を引いている。 面会の終った時間も、夕刻だった。 西 郷・勝会談への「パークスの圧力」がありうるとすれば、おそくとも3月14 日の第二回会談までに、パークスの発言が西郷のもとに届いていなければなら ないからである。

 「パークスが西郷と勝のはたしている役割をやっと突きとめたのは、(中略) 三月十八日であったらしく、パークスは東征軍大総督の「通牒」をもって、ふ たたび来訪した東海道先鋒総督参謀木梨精一郎から、それを聞き出したのであ ろう。」

 3月19日、パークスは、勝と連絡をとるために、サトウを江戸に派遣した。  「勝とイギリス側との接触がはじまるのは、このときからである。」 「勝は徳川側、とくに勝自身の条件を慶喜の助命と、家臣団扶養に必要な収入 源の確保の二点にしぼって、この最低条件がみたされれば、江戸開城、武器艦 船の引き渡しなどは意に介しないと、サトウに説明したようである。」

 一方、勝と会談して、勝の対案を持って京都へ上った西郷は、新政権の首脳 会議で、パークスの(木梨への)発言、慶喜助命の必要、江戸攻撃の不可など を、くわしく紹介したのであろう。 「西郷はパークスの関心が集中している 点、すなわち、慶喜の助命に焦点をしぼって、そこにパークスの発言を「圧力」 として利用したのであろう。」「(強硬論の)かれらを説得するためには、やはり 西郷自身も「パークスの圧力」をうけている振りを、もう一度してみせなけれ ばならなかったのかもしれない。」

 3月22日に京都を発った西郷は、25日に駿府の大総督府で、パークスの面 会要請をつたえるサトウの手紙を受けとった。 28日、江戸へ向う途上、横浜 に立ち寄り、パークスに慶喜の助命をふくむ新政権の意向を伝えた。

 「「パークスの圧力」と呼びうるものは、西郷がこれを自派内部の強硬論者対 策に利用したという意味では存在したが、それ以外の意味では存在しなかった のではないか。つまり、西郷自身は、パークスの意向の如何にかかわらず、自 らの判断で慶喜の助命と江戸攻撃の中止を決意し、それが結果的にパークスの 意向とも合致した、ということなのではないかと、筆者(萩原延壽さん)は考 えている。」

 アーネスト・サトウのお蔭か?「江戸城無血開城」という、この一連のシリ ーズは、結局、両論併記という形になってしまった。 真実は藪の中というこ とになる。