サトウの泉岳寺前の家と生活 ― 2017/01/30 06:37
アーネスト・サトウが芝高輪の泉岳寺の前に借りていたという家の話が、『一 外交官の見た明治維新』下「第二三章 将軍政治の没落」(岩波文庫)にあり、 『遠い崖』にも引用されている。 慶應3年、約3か月にも及んだ西国への旅 の出発前に借りていた。 当時通訳官サトウの年俸は500ポンド、それを月額 に直すと41ポンド14シリングになるから、家賃はサトウの給料の約6分の1 にあたるという。
「この家は、江戸湾を見渡す切り立った丘の上にあって、高屋敷と呼ばれて いた。家賃は月一分銀百枚で、これは6ポンド13シリング4ペンスに相当す る。もとは身分の高い日本紳士の隠居所だったが、その紳士が家督を長男に譲 り、ここの土地を買い入れて、自分の好みにしたがって建てた邸宅なのであっ た。」「いろいろの広さの小部屋からなり、小山や草地に樹木や灌木などを植え て作った庭園があった。」 土地全体の広さは約800坪。
「二階があって、私はそこを寝室と日本人客のための応接間とした。階段が 三ケ所あって、夜半刺客に襲われた場合に逃げ出せるようになっていた。階下 には、ヨーロッパ人の客のための応接室一つ、来訪者の控室二つ、私の用人の 控室一つがあり、それに私の書斎もあった。書斎は九フィート四方(四畳半) で、海を一望におさめることのできる円形の窓と、その横側には庭園を見渡せ る角窓がついていた。本や書類を置く沢山の小さい戸棚や戸のない棚もあった。 書きものをする机、小さいテーブル、私の用いる椅子、日本語教師の椅子、公 使館付シナ語教師のための腰掛けなどもあった。広い浴室と台所があった。離 れたところに別棟の二階家があって、そこには私の用人が住み、私が英語を教 えていた若い日本人たちの宿舎にもなっていた。」
「私の食事は純日本式で、万清(まんせい)という有名な料理屋から運ばせ ていた。もっとも、イギリスのビールだけは別だったが。家族(同居人)とい えば、第一に用人(前に述べた会津の侍野口)で、この者の役目は一切の管理、 勘定の支払い、必要な修繕の手配、直接私に会う必要のない用事で来る人々と の応接などであった。その次は、食卓に侍したり小間使として立ち働く十四歳 の少年で、これは侍階級に属していたから、外出の際には大小の刀を差す資格 があった。それから三十歳ばかりの女であるが、この女の勤めは床を掃除した り、朝晩の雨戸の開閉、それに衣類のボタンを縫いつけたりする雑用だった。 私はまた、近所の使い歩きや、家族全体のための飯たき、そのほか万端の雑用 に役立つような男を一人雇うはずであった。最後は門番で、これは庭の掃除、 馬の世話、馬丁などをやった。私が徒歩、あるいは騎馬で外出する時には、二 人の騎馬護衛があとからついて来る。この護衛は、この年の初め陸路大坂から の旅をした際に大君政府の命令で私に付いて以来、ずっと私の警護に当たって いたのだ。」
「以上のように、私は自分の希望通りの一家を構えたので、日本語の勉強と 日本人との親しい交際に打ち込んだ。おかげで、日本人の思想や見解に精通す るようになって来たので、全く心が楽しかった。」
12月9日の「「O・K・」のこと」に書いたように、サトウが泉岳寺から坂を 上った三田伊皿子の高級な指物師の娘、サトウより10歳年下の武田かねと知 り合うのは、維新後まもないころと思われるという。 ふたりの間に、明治6 年幼児のうちに亡くなった女子、長男栄太郎(明治13年生)、次男久吉(ひさ よし・明治16年生)が生まれる。 後に長男は、アメリカで農園の経営者に なり、次男は、日本山岳会の創立者のひとりで、植物学の権威であった武田久 吉博士となった。
泉岳寺や伊皿子は、わが家のお寺のそばなので、土地勘がある。
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