柳家権太楼の「睨み返し」後半2017/01/06 06:30

 可哀そうだよ、お前さん。 まだ借金取りは、たくさん来るんだよ。  借金の言い訳、しましょ! 借金の言い訳、しましょ! アッ、言い訳屋さ ん、ちょいと、こちらへ。 先生、寒いから、ちょいとこちらへ。 どうなっ てんだい。 一時間二円で。 いくら来ても二円、誰も来なくても二円。 お っかあ、二円作って来い。 これから一時間。 次の間へ、行っていて下さい、 アッ、次の間、ないんですね、すみません、押入れに入っていて…。 火鉢と 煙草盆を。 借金取りが来たら閉めて。

 こんばんは、米屋ですけど。 昼間、おかみさんが夜分になったら、お届け しますって、言ってたんですけど。 米屋です。 (煙管を持って、睨む) 番 頭さんが、勘定もらってくるまで、帰ってくるなって、アッ、ワッ、ワッ。 (物 凄く怖い顔で、睨む) アッ、アッ、米屋なんですけど、サヨナラ。 おお、 いい、いい。 睨み返し屋さんはしゃべらないんだね、お前さん。

 酒屋でございます。 アッ、ワッ、ワッ。 サヨナラ、サヨナラーッ。 早 かったね。 大丈夫でございます、まかして頂ければ。

 御免。 (煙管で、パッと) わしは斎藤氏から依頼された太田万蔵という 者だが…。 細君も、主も、いないのか、君で話ができるとは、聞いておらん のだぞ。 こう見えても、刃(やいば)の下は、何度も通って来た。 君も依 頼されたのか。 依頼された者同士、君も、僕も、いいという、何といったら いいか。 ワーーッ、ブゥーーッ! 暴力はいかん、暴力は。 帰りました。  あいつには、特に苦労してたんだ。

 15分ばかり、延びた。 まだまだ、来ますので、よろしくお願いします。 い いや、駄目、ウチに帰って、自分のを睨みます。

 権太楼の「睨み返し」、恐ろしい顔を見ていて、永谷園CMの柔和な笑顔か らの落差が印象的だった先代小さんの、唇を突っ張った怖い顔に重なった。 や はり、一門である。

防衛大学校と慶應義塾、初代槇智雄校長2017/01/07 06:40

 12月8日の小泉信三記念講座、橋本五郎さん(読売新聞特別編集委員)の講 演「戦後日本と小泉信三先生――没後五十年に際して」は、この日記に12月 23日から3日間書いた。 http://kbaba.asablo.jp/blog/2016/12/23/

 その5日後の12月13日、第703回の三田演説会、防衛大学校長の国分良成 さんの「防衛大学校と慶應義塾」で、また小泉信三さんの話を聴くことになっ た。 講演の柱は二つで、「防衛大学校とは何か」という詳細な解説の後、「防 大の原点、慶應義塾との接点―初代学校長槇智雄の挑戦」の話になったからで ある。 以下、大切なことばかりなので、ほとんど国分良成さんのレジメを文 章にする形で紹介したい。

 防衛大学校の三恩人は、吉田茂、小泉信三、槇智雄。 吉田の防大構想は、 陸海空統合、科学重視、民間人学校長だった。 そして小泉信三に校長を依頼 したが、東宮御教育参与の小泉は辞退し、槇智雄を推挙した。 吉田と槇の初 面会で就任が決定した。 小泉と槇とは、1933(昭和8)年、小泉の慶應義塾 塾長就任とともに、槇は常任理事(二人いる内の学務担当)に就任し、1946(昭 和21)年まで一緒だった。 小泉は「ルーズベルト」「論語」を多用し、槇は 「チャーチル」、西洋思想を多用した。

 槇智雄の経歴は、1914(大正3)年塾理財科を卒業、オックスフォード大学 に留学し、1920年に卒業(政治学)、21年の帰国後、法学部教員となり、24 年教授となった。 国際連盟慶應支部(現慶應国際政経研究会)会長、1925 年体育会理事(34歳)となり、山中山荘建設、体育会諸施設建設に携わる(小 泉は新テニスコートに感激)。 寄宿舎舎監、1933(昭和8)年慶應義塾常任理 事に就任した(42歳、もう一人は堀内輝美財務担当)。

 慶應義塾常任理事としての槇智雄は、どのような仕事をしたか。 日吉(大 学予科)の建設、藤原工業大学=工学部建設の実務担当。: 大学関係建物・各 種施設(陸上競技場等各体育会施設)、銀杏並木。 天現寺の幼稚舎建設(谷口 吉郎に依頼)。 英国留学の経験から、寄宿舎建設(1937(昭和12)年完成) へ強い想いを寄せた。: 個室、床暖房、水洗トイレ、ガラス張り風呂→初代舎 監就任。 さらにリベラルアーツ・カレッジへの想い=「気品の泉源、智徳の 模範」(福沢)への想い、礼節重視、も。

 1941(昭和16)年太平洋戦争開始、学生と教職員の戦時動員、42年から学 徒動員、槇は予科(日吉)主任として対応した。 1944(昭和19)年帝国海 軍連合艦隊司令部の日吉キャンパス移転、寄宿舎は司令部作戦室・士官宿舎と なった。 地下壕建設、海軍との交渉は槇の役割だった。 最大の戦禍を受け た慶應義塾 : 日吉キャンパスの破壊、小泉・槇の落胆。 1947(昭和22)年 1月小泉塾長退任とともに常任理事を退任した。

 上に述べた吉田茂の防大構想のもとは、「今日は民主主義の時代である。多く は昔のままではいかぬ。士官教育また然りである」で、腹心・辰巳栄一(元駐 英武官、元陸軍中将)のアドバイスも受けた。 吉田は、防大に計7回(総理 時2回)来校していると、麻生太郎副総理に聞いた。 小泉信三は10数回来 校しており、小泉信三著『任重く道遠し―防衛大学校における講話』(甲陽書房・ 1965年)がある。 そこに「槇智雄さんは私の多年の親友であり、私が十年余 り慶應義塾の塾長をしておりました時に、槇先生は・・・副塾長のような位置 にいて終始私を助けられた無二の親友であります」(93頁)。

 槇智雄著『防衛の務め』(中央公論新社・2009年)には、小泉が槇に「防衛 大学校長の仕事は気の毒だ。・・・国防のごとき大切のことに世間は冷ややかで ある。軍閥の復活だといい、学生などにも悪口雑言を浴びせる。さぞ気苦労の 多いことであろう。心から心労ねぎらい申す」(303頁)と言ったとある。

 槇は小泉の塾長訓示(一、心志を剛強に容儀を端正にせよ。一、師友に対し て礼あれ。一、教室の神聖と校庭の浄化を護れ。一、途に老幼婦女に遜(ゆず) れ)に敬意を表し、「塾長時代の先生は、持するところ高く、気性も強く、理路 整然としてことばの切れ味も鋭かった。人はこれを尊敬した。しかし晩年の先 生については、英語のmellow(円熟)という字を思わせる」(同299頁)と、 書いている。

 「防衛大学校校長としての槇智雄」については、また明日。

防衛大学校校長としての槇智雄2017/01/08 06:52

 国分良成さんの講演「防衛大学校と慶應義塾」のつづき。 槇智雄が影響を 受けたのは、福沢諭吉、小泉信三、英国流政治学(恩師アーネスト・バーガー。 哲学的表現が多い)、カレッジ生活、井上成美等々である。

 「第一に諸君の任務は偏することなき人物を要求していること、第二に諸君 の任務は民主制度に対して的確な理解を要求していること、これであります」 (1953(昭和28)年第1期入校式式辞、『防衛の務め』21頁)

「規律なくして真の自由はなく、遵法精神または正義に服従する意思なくし て真の民主制度は成立しません。・・・われわれは個性の発展を重視するととも に、大きな期待をこれにかけるものであります。・・・個性は野放しのものでは なく、また個人の自由は放縦を意味するものではありません。・・・正しいこと を目指すことにおいてのみ個性の発展があり、正しき行いにおいてのみ自由が あるのであります。」(同23頁) →→池田潔著『自由と規律』(岩波新書)

「士官にして紳士」(同27頁)、「高い身分には義務が伴う、Noblesse oblige」 (同29頁)、「規律、自主、信頼」(同30頁)、「われわれは大体三つの目標を 考えております。一つは立派な社会の一人であるとともに有用な国民の一員で あること、他の一つは立派な部隊幹部であること、さらに他の一つは立派な学 識を持つ人たることであります」(同46頁)。

「学生隊と校友会を、われわれは知能技術における教室、訓練における訓練 場、または様々のところで行う演習の場と同様に、幹部自衛官の人柄の養成場 と考えているのであります」(同181頁) →→自主自律精神の涵養

「この特異独特の教育体系は、理工学に重点をおきますが、これを専門教育 または職業教育と考えることを極力避けて、むしろ全体を流れる教育上の主義 は、一般またはリベラルの色彩の濃いものであるのであります。専門教育を急 ぐの余り、諸君の年齢期にあって修得せねばならぬものを失うことは、厳に慎 まねばならぬとして参りました。人生への準備であり、諸君の一生のことを考 えることが諸君のためでもあり、また自衛隊を利益するものであるとの信念に よったものであります」(同90頁) →→専門教育・職業教育ではなくてリベ ラルアーツ教育(人間性の土台づくり)

「心に遅れをとっていないか、腕に力はぬけていないか」 →→智・徳・体 の融合(頻繁に言及)

「パスカルは『力の伴わぬ正義は無力であり、正義を伴わぬ力は抑圧である』 と言った。防衛組織に正義は常に伴侶でなければならぬ。もしこれなくば防衛 の力は道義的に無力であるか、あるいは忌むべき暴力に堕するであろう」(同 200頁)

「平和は進歩に欠くことのできない要因である。しかし、国の独立を見失う ての平和は何の意味もない。また国民の幸福とその実現に国民の基本的自由は 大切である。しかし、このために国民は国を守る責任から解放されるものでは ない」(同213頁) →→福沢精神の表出、「独立の気力なき者は国を想うこと 深切ならず」(『学問のすゝめ』)

防衛大学校と慶應義塾との歴史的紐帯=福沢精神(「一身独立して一国独立す ること」(『学問のすゝめ』))

 「塾(慶應義塾)ではやれなかったことを、もう一度、防衛大学校でやった」 (昆野和七(塾職員)「槇智雄先生の追憶」、『槇乃実 槇智雄先生追想集』1972 (昭和47)年)

槇智雄さんの小泉信三さん追悼文2017/01/09 06:24

 国分良成さんの講演を聴いた後で、小泉信三さんと槇智雄さんの関係をあれ これ考えている。 『三田評論』652号、昭和41(1966)年8・9月号「小泉 信三君追悼記念号」に、槇智雄さんの「塾長時代の一面」という追悼文があっ た。 全文を引きたいところだが、特にいくつか、紹介しておく。

 「後年私は小泉先生の推薦をうけて、新設の防衛大学校長に就任して、その 創設と教育に十二年余を過ごした。この間常に先生を相談の相手と心得ていた が、むしろ無言の激励を常に強く心に感じていた。同時に身に覚えるのは、先 生の学生訓陶を身近かに見聞していた経験を持つ幸運であった。防衛大学校は その教育の目的の性質上、どうしても道義心と勇気、規律としつけ、これらを 民主主義の旗の下に身につけさせなければならなかった。想を練れば、その背 後に先生あるを拒めなかったし、ものを言えば、その語った後に、これは小泉 調であったと気付いてハッともし、その影響の強さに、みずから感心せずには いられなかった。」 その後で、槇智雄さんは(一昨日出て来た)「塾長訓示」 を引いている。

 「先生の塾長時代の世相は、時を経るとともに重苦しさを増して行った。」「や がて、日支事変は大した意味も持たないで深淵に押し流され、制動を失った車 のように転落して行くばかりであった。われわれの教育の周辺にも次々と、目 まぐるしい変転が訪れ、殊に全体主義は、恐喝的の暗雲を捲いて襲いかかるの を覚えた。この時、記憶する一事件があった。それは陸軍士官学校の教科書に、 自由主義を誹謗した後、福澤諭吉を日本の国体を汚したものとして記述する文 章を発見した時のことである。塾長とともに、この教科書を読んでいたと思う が、先生は「これをこのままにすることは出来ない。たとえ慶應義塾をつぶし ても、しようがないじゃないか」と、ただならぬ気配であった。正直のところ、 私は大変だと驚いた。幸いその後、この件はだれ言うとなく再び口にすまいと して、ことなく済んで行った。」

 やがて、開戦の日が来た。 「早朝まだ開戦を知らずに登塾して塾長室に入 ると、十四年に開校した藤原工業大学の藤原銀次郎理事長が、すでに来ておら れ、沈痛な面持ちで対談していられた。」「藤原氏は「もう、聖断を仰ぐことも なくなりましたね」と呟かれた。この「聖断を仰ぐ」と言うのは、日々に緊迫 する情勢に苦悩する小泉先生が、戦争回避の途は、この機に及んでは、この外 に方法はないと、頻りにいわれていた言葉であった。先生自身に聞かせる祈り にも似た文言であった。いうまでもなく先生は、生涯を貫いた愛国者であり、 国家独立の熱烈な擁護者であり、幾度となく福澤諭吉の愛国心について語り、 書きもした人である。しかし、当時の開戦論者の同調者では、断じてなかった。 むしろばかばかしい話だが、当時の禁句の非開戦論者であった。先生はこの頃、 急に山本五十六元元帥と親交を結んでいた。同大将の対米戦避くべしとする説 も周知のことである。しかるに、この二人の戦争回避論者は、ひとたび干戈(か んか)を交えるに至っては、戦争の遂行に全力を傾けたのも、奇しくも一致す る運命だったと言うより外はない。」

 「戦時中の出征の卒業生や学生に対する、先生の心くばりには、慈悲の権化 でなかろうかと思わせるものがあった。手の届く処、心の及ぶ限り、一人一人 に尽すのであった。次々と暇乞いする学生に、激励もし、注意を与え、家族に ついても問う。」

 「しかし、ついに戦争は、敗北して終った。塾にも、先生にも、われわれに も、大きな傷跡を残して終ったのであった。殊に先生は、戦いに破れ、ひとり 息子の令息を戦争に失ない、焼夷弾に家は焼かれ、大きな火傷を負うた。また 塾長の職も退かれた。」

 この頃のある日、静養されている先生を訪問した。 「私はわれわれは敗れ たが、よく戦って義務を尽したのではないでしょうかと語った。しかし、先生 の言葉はその当時の私には意外で、「そうだったろうかね。僕は今米国の本を読 んで、戦時中強硬に、堂々と戦争に反対した人々に感心している」といわれた。 この時程、私は何か先生の淋しげなのを感じたことはなかった。」

昆野和七さんの小泉信三さん追悼文2017/01/10 06:27

つぎに紹介したいのは、国分良成さんの講演の最後に「槙智雄先生の追憶」 を書いたとお名前の出た、昆野和七さんの、小泉信三さんを追悼した文章であ る。 昆野和七さんは、私が知っていた頃には、福澤諭吉協会の編集委員(昭 和48(1973)年の創立当初から)を務めていらっしゃって、『福翁自伝』の校 注、『福澤諭吉年鑑』の研究文献目録(第1巻~13巻)がある。

 その文章は、昭和41(1966)年9月10日刊の『小泉信三先生追悼録』(新 文明社)の「福沢諭吉書翰と小泉先生」である。 まず小泉信三編著『福沢諭 吉の人と書翰』(慶友社版・昭和23(1948)年5月)の出版の経過が語られる。  健康上の理由で約1200通の福沢書翰を読み解題をつけることを渋っていた小 泉さんに、昆野さんが先年つくっていた福沢書翰年月別の綴込みと、それに関 するノート一冊のメモ、その中から300点を選定したものを提供し、それに解 題を付けてもらうことで、小泉さんは出版に踏み切ったのであった。 小泉信 三さんが福沢物を書く場合、親疎の差はあるけれど、昆野和七さんに相談し、 その手伝いを受けていたようだ。 私は、清家篤塾長が式辞や講演にあたり、 小室正紀さんに相談されると聞いたことを思い出した。

 この本が出版されて間もない昭和23(1948)年6月11日、昆野さんの生れ て2年8か月の三男が、石につまずいて転んだ拍子に、隣家の畑の雀おどしの 竿竹が倒れていたのに、左眼を突き刺してしまった。 突端は深く刺さって折 れた。 内科医(義兄)でそれを抜き取ってもらって、慶応病院へ。 眼科の 桑原安治博士の執刀で眼球は抜き取らずに済んだ。 桑原先生は「一生大変だ なあ。目玉を助けてみましょう」といい、その瞬間が三男の生涯を左右した。  翌日から部長の植村操博士の診断治療を受けた。 内部の傷が深いため助けた 左眼が悪化すれば、健康な右眼も失明する恐れがある。 その時には、左眼を 抜き取るという。 そのとき奥さんは臨月で、打撃は甚だしかった。 1か月 を経過してどうやら峠を越して7月12日、一応退院したが、奥さんが産気づ いて、入れ代わって入院した。 ショックのため難産であったが、二女が生ま れた。

 7月25日、川久保孝雄氏が小泉先生の使いで来訪、黙って受け取ってくれと いって、手紙に添えて分厚い角封筒が手渡された。  「昆野学兄 (中略)お子様の御怪我、きくも肝つぶるる許りにて、貴兄御 夫婦の御心中いかあらんかと推察のあまり、しば\/愚妻と語り合いました。 先日来、一度丘を越えて御見舞ひと存じながら、此頃意外に来客多く、また屡々 雨に妨げられて果たしません。どうぞ、少しでも宜しき方へ好転せらるるやう と祈り上げます。貴兄自身、心を励まし、奥様を励まされたく、怱々一筆、如 斯御座候。    不一            七月二十五日 小泉信三」

 「各封筒の金子は、百円札で四十枚であった。当時まだ千円札はなく、百円 の偉力が大きかった時代である。印税の一部を恵与されたものらしい。川久保 氏来訪のその日の夜正七時に、私は小泉邸の玄関のベルを鳴らした。先生自身 で出てこられた。待っていられたらしい。大きな声で「やあ」といった。こん な大きな声をあとにも、先きにも聞いたことはなかった。金の礼をいいかけた ら劇しく手で抑えられた。応接間で先生御夫妻から交々、矢つぎばやに尋ねら れるままに話した。突然、先生は、  「ああ、眼がぢきぢき痛んできた。あなた方がお子さんを抱いて病院に着い たときに、眼科の桑原君が折よく居合わせたことは、何んといっても幸運でし たね。私も空襲のとき、桑原君に眼を救ってもらいました。そのとき、植村君 がこういいましてね。「あの男はづう体は大きいけれども、私より手先は器用で す。何をやらしても、私より巧いんです。御安心下さい」とね。あの植村君が 讃めるんですから、確かなものです。桑原君は私が保証します。御子さんは必 らず治りますよ。」

 子供が退院するとき、桑原先生は短い言葉でこう語った。「目玉が一つ助かり ましたね。大きくなって本人が気にさえしなければ、片目で立派にやって行け ますよ」と。そういわれた三男(信也)は、目のことを少しも気にせずに育っ た。いまでは理工学部の応用化学科に在籍している。応化の外にも何かを修め て終世、研究生活をしようかと、心に誓っているようである。」

 「昆野信也」でネットを検索してみたら、埼玉県公害センターなどの論文が 出て来た。