中勘助結婚式当日の出来事2017/02/15 06:37

 そこで私は、菊野美恵子さんがその件について、以前に詳しく書いたという 『新潮』2001(平成13)年7月号を読みたいと思った。 世田谷区の図書館 にはなく、大田区立蒲田駅前図書館が大田区の方針で保存庫に長期に保存し、 調査・研究のために提供しているものを、時間はかかったが、取り寄せてもら って、読むことができた。 「中勘助と兄金一」という文章だった。

 菊野美恵子さんと中勘助の親戚関係を、確認しておく。 吉田松陰の弟子に、 入江九一と野村靖の兄弟がいた。 入江九一は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔 麿とともに、松陰弟子中の四天王といわれたが、蛤御門の変で、討ち死にした。  野村靖は、28歳の若さで死んだこの兄を悼み、自分の次男貫一に兄の姓を継が せた。 この入江貫一が、菊野美恵子さんの祖父である。 野村靖は、廃藩置 県に力をつくし、岩倉使節団の一員として訪米、子爵に叙せられ、逓信大臣を 務めた。 中勘助のただ一人の兄、14歳年上の金一は明治35年、野村靖の五 女、末子と結婚する。 入江貫一の妹である。 野村家と入江家の人々は、と ても仲が良く、野村靖を始めとして、金一の年若の弟である中勘助を可愛がっ た。 後年、次の代で、野村靖の孫(貫一の長男、菊野美恵子さんの母の長兄) と中勘助の姪君江(姉ちよの娘)が結婚して、同じ家族の中で二重の婚姻関係 が生まれた。 この伯母君江は、勘助の随筆の中に「入江の君ちゃん」、「カナ リヤの君ちゃん」、あるいは<蝉>としてしばしば登場する人である。 中勘助 が末子が亡くなった半年後、昭和17年10月12日に結婚した嶋田和は、君江 とその姉ももゑの友人で、お茶の水の専攻科を出てから、20年も書道の教師を し、42歳であった。 結婚式の当日の写真に、当然いるはずの野村家の何人か がいないというのには、そういう親戚関係があったのである。

 中勘助と和の結婚式の当日、赤坂の家には親類の女性たちが何人か来ていた。  亡くなった末子の妹、初子もその一人だった。 末子と初子はもともと仲がよ い姉妹だったが、初子の夫・言語学者松岡静雄(柳田国男の実弟)が脳溢血で 倒れてから、それぞれの夫が同じ病気ということで、ますます親しくなってい た。

 床屋から帰ってきた勘助は「兄さんに挨拶してくる」と言って二階の兄の自 室に上がっていった。 階下にいる人たちは長い挨拶だと思っていた。

 ずいぶんたって勘助が階段を降りてくる音がした。 普段立ち居振る舞いの 静かな勘助が、ガタガタと壁にぶつかるような音をたてて降りてきたが座敷に 入ってこない。 松岡初子がいってみると、階段の下に勘助が肩で大きな息を つきながら正座していた。

 「その時の勘助さんのお顔はそりゃもう忘れられるものではありません」初 子は後に言った。

 「兄さんが死んだ」勘助はしぼり出すような声で言った。 初子たちが震え る足を踏みしめて這うように金一の部屋に入ってみると、布団の上に金一は横 たえられていた。 縊死による自裁であった。

 当日、花婿となるべき57歳の勘助は71歳の兄の遺体を降ろし、布団に寝か せて整えたのである。

 警察が呼ばれた。 「この結婚はもう意味を失ったから取り止める」と勘助 は言う。 勘助の姉ちよの娘たち、ももゑ、君江姉妹は必死で勘助を説き伏せ にかかった。 新婦はももゑ、君江姉妹の友だちで、境一郎・ももゑ夫妻は当 日の仲人である。 「結婚式当日にとりやめなんて、そんな屈辱的なことを」 と姉妹はかきくどいた。

 喪は秘して結婚式はすませることに決まった。 ももゑ、君江の姉妹はハイ ヤーで新婦を迎えに行き、式場の学士会館へ向かった。 何も知らぬ新婦は浮 き立つような感じであった。 縁談が起った時、和は叔父の早稲田大学の仏文 学教授山内義雄(馬場は『チボー家の人々』の訳者として記憶していた)に相 談した。 「中勘助との話なら三日間の結婚でも大賛成だ」と言われたという。  和にとっては家族皆に祝福された縁談だった。

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