北斎を描いた藤沢周平の『溟い海』2017/02/16 06:32

昨年7月4日TBSテレビ放送の藤沢周平を描いたテレビドラマ『ふつうが 一番』で、直木賞を取るまでの苦闘を知った。 藤沢周平が作家としてデビュ ーしたのは、昭和46年、『溟(くら)い海』で「オール讀物」新人賞受賞をし て、6月号に掲載され、その期の直木賞候補に推されたのがきっかけだった。  すでに43歳だったが、その力量にはただならぬものがあって、『囮』(「オール 讀物」昭和46年11月号)、『黒い繩』(「別冊文藝春秋」昭和47年秋季号)、『暗 殺の年輪』(「オール讀物」昭和48年3月号)と、4作つづけて各期の直木賞候 補に推され、その4度目の『暗殺の年輪』で第69回直木賞を射止めた。

藤沢周平を描いたテレビドラマ<小人閑居日記 2016.7.16.>

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その時期の藤沢周平年譜<小人閑居日記 2016.7.17.>

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「暗い情念」から「明るい絵」へ<小人閑居日記 2016.7.18.>

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私は、その初期の4作品を読んでいなかった。 『サライ』2月号の、特集 『没後20年藤沢周平』「平凡でいい。ひたむきに生きよう」で、『溟(くら) い海』が葛飾北斎を描いた作品だと知った。 北斎は、若い時買った『北斎 人 物漫画』(1969年・岩崎美術社)という本をときどき見ていて、11月22日に 開館したすみだ北斎美術館にも行きたいと思っていたところだった。 文春文 庫の『暗殺の年輪』に、『溟い海』も、『囮』と『黒い繩』も、収録されている ことがわかったので、入手した。 直木賞受賞(昭和48年8月)直前の『た だ一撃』(「オール讀物」昭和48年6月号)も載っている。

そこで『溟い海』だが、葛飾北斎が≪富嶽三十六景≫などで古今独歩、前人 未踏の風景描きの名声を得ていた晩年に、安藤(歌川)広重が≪東海道五拾三 次≫で登場して、北斎の心をおびやかす話だ。 私は、当時の浮世絵版画界の 事情や、北斎と広重の関係などは知らなかったので、どこまでが事実かわから ないが、藤沢周平が緻密な調査によって書いているらしいことは、伝わって来 る。

冒頭、北斎は両国橋の上で、ごろつきの鎌次郎と出会い、倅の富之助が賭場 でこしらえて、お豊という美人と逃げているという、二両の金を要求される。  富之助は、北斎が縁続きで子供の頃先代に養われていた鏡研ぎ師の中島家に養 子に出したが、今は勘当されている。 十日ほどして、北斎の家に鎌次郎が金 を受け取りに来て、広重という男の描いた「東海道」がえらい評判だと話す。  北斎は二年ほど前、風景画だというので、その男の「一幽斎がき東都名所」を 見たが、平凡な絵という印象だった。 しかし、鎌次郎の話が、なぜか気にな った。 一点の墨が、たとえば筆洗に落ちて、じわりと黒をにじませるのに似 ていた。

 次の日、北斎は日本橋の嵩山房で、主人の小林新兵衛に会う。 新兵衛は、 広重の「東海道」を見たかと聞き、いま保永堂が増摺りをしている、手元の初 摺りは国芳が持出しているが、「先生のおっしゃる風景と、多分、少し違うと思 いますよ」と言う。

 馬喰町の永寿堂に回ると、主人の西村与八に「保永堂は、いまに倉を建てる ぜ、あんた」、「あんたとの約束だがな。どうするね? こうなっても富嶽百景 はあたるかいな」と、言われてしまう。

 嵩山房の書斎で、北斎は安藤広重を紹介された。 広重が帰った後、「東海道」 を見た。 広重は、無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景を、つ まり人生の一部をもぎとる。 あとはそれをつとめて平明に、あるがままに描 いたと北斎は思った。 「東海道五十三次のうち蒲原」に、雪の音を聞いた。  そう思ったとき、そのひそかな音に重なって、巨峰北斎が崩れて行く音が、地 鳴りのように耳の奥にひびき、北斎は思わず眼をつむった。

 永寿堂から鳴り物入りで出版した「富嶽百景」は不評だった。 (渓斎)英 泉が「木曾街道」の続き物を途中で投げ出し、版元保永堂が後釜を決めたと聞 いた北斎は、風景画なら自分だろうと思ったが、それは一立斎、広重だった。  北斎は、ごろつきの鎌次郎に頼み、師走に近い夜半の上野広小路で、広重を襲 うために待ち伏せするのだが…。