藤沢周平直木賞『暗殺の年輪』(下)2017/02/19 07:01

 家に帰り、母の波留に、「やはり、噂は本当だったのですな」 唇がわななき、 低い声で「お前のために、したことですよ」 「今夜、私は人を殺して来まし たよ」 馨之介は家を出ると、徳兵衛の店へ行き、店仕舞いしたお葉を相手に、 二階の部屋で酒を呑み続ける。 肩をぶつけて来たお葉の肩を掴むと、馨之介 の胸に重く倒れ込んできた。 灯を消して、とお葉は囁いた。

 家に戻ると、家の中は闇だった。 不吉な感じが、胸をかすめた。 むせる ような血の香が立ち籠めていて、その中に母が自害していた。

 馨之介は、城の大手門前の一画で、嶺岡兵庫の下城を待伏せしていた。 提 灯を持つ頭巾の女が足早に近づいて来た。 菊乃だった。 菊乃はいきなり馨 之介の胸に倒れ込んできて、「兄は来ません」、ずっと立ち聞きしていた、「おひ とりに押しつけようなんて、父たちは何か企んでいるのですわ。だから逃げて。 そうすれば……」「わたくしもおともしますわ」 やめることはできないと言う と、菊乃は馨之介の家で待つと行く。

 三人の明りが来た、ここを通るのは、嶺岡兵庫だけだ。 「嶺岡どののお命 を頂きたい」 左側の男を抜き打ちし、腕の立つ男が猛然と斬り込んでくるの を、三撃目に倒した。 兵庫は刀を構えたまま、「いま儂(わし)が死んだら、 藩が潰れるぞ」と気力の籠った声で言う。 「私の恨みでござる」 「なに?」  「葛西源太夫の子、馨之介でござる」 馨之介は一瞬にして覚った。 この男 はすべて忘れ去っている。 父はもちろん、その記憶に怯え、それを知られた とき命を断った母のことも、この男の記憶には恐らく塵ほども留まっていまい。  「葛西だと? 知らんな」 「ごめん」 馨之介の刃が、兵庫の胸のあたりを 真直ぐに突き刺し、衝き上げて来る憤怒を加えて、剣先はさらに深く肉を抉(え ぐ)った。

 突然闇の中に火光が走って、右横からいきなり斬りかかってきた者がある。  のけぞって躱(かわ)したが、気がつくと右も左も、牙を植えたような光る白 刃の群だった。 敵はすべて覆面で顔を包んでいて、七、八人はいる。 (こ のままでは殺られる)と思った。 不意に菊乃の言葉が蘇った。 (父たちは 何か企んでいるのですわ) これがそれだ、と思った。 みるみる水尾一派の 企みの全貌が見えてきた。 嶺岡兵庫を斃(たお)すことは必要だが、そこに 水尾家老の手が動いた痕跡を残してはならないのだった。 暗殺者として、馨 之介以上の適任者はいまい。 あとは汚れた手を洗うように、暗殺者を消すだ けである。 (あるいは……)父の源太夫も……。

 「そうはさせんぞ」 「金吾」 「貴様らの腹は解った。さ、来い」 小刀 を鞘ごと龕燈(がんどう)に投げつけて、火が消えると、馨之介は猛然と右側 の敵に斬り込んだ行った。 左の上膊部に鋭い痛みを感じたが、その前に斬り 下げて倒し、背後に追い縋る刃を斬り払うと、馨之介はいきなり走り出した。  闇が逃げる者を有利にしている。 星もない闇に、身を揉み入れるように走り 込むと、馨之介はこれまで躰にまとって侍の皮のようなものが、次第に剝げ落 ちて行くような気がした。  馨之介は走り続け、足は家とは反対に、徳兵衛の店の方に向っているのだっ た。

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