東京義塾のこと…『ベトナム民族小史』の福沢(2)2017/03/14 06:32

    東京義塾のこと…『ベトナム民族小史』の福沢(2)

              <小人閑居日記 2013.10.23.>

 松本信広著『ベトナム民族小史』の福沢関連の続き。  潘佩珠は、「科挙に合格後、勤王運動に身を投じ、各地を周遊して同志をつの り、1904(明治37)年5月、曾抜虎、阮誠等と結んで越南独立回復会を組織 し、嘉隆(ジアロン)帝の直系である24歳の皇族彊「木底」(コンデ)を会長 として推戴した。そしてベトナムの独立には外国の援助が不可欠であるとして、 1905年、潘佩珠は二人の同志とともに日本に密航してその援助を得ようとし た。」

 「彼は日本において当時亡命中の梁啓超にあい、さらに大隈重信、犬養毅を はじめとする日本の政治家たちと接触し、一旦帰国し、翌1906年には彊「木 底」をともなって再び来日した。そして「ベトナム維新会」を正式に結成し、 宣伝活動に従事するとともにベトナム各地に拠点をつくり留日学生のための便 宜を提供した。こうして1908年には留日学生の数は二百を超え、日本の各種 学校に入り、勉学につとめた。」

 一方で、外国の援助を借りず、むしろフランスとの協力のもとに民主的国家 の実現をはかろうとした潘周(ファンチューチン)もいた。 封建的指導層に 属し、科挙に登第し、礼部尚書の地位についた人物だが、1905年、これを辞職 し、日本に来遊した。 帰国して、総督府に長文の意見書を提出、ベトナム人 のために減税と教育の普及とを要求した。 総督府はこれに答えなかったが、 彼の説く民主主義の思想は、ベトナムの中国式制度にあきたらない思いをいだ いていた知識人の間に燎原の火の如くひろがった。

 「こういう改革の風潮に拍車をかけたのが東京義塾(トンキンギアテウク) の設立である。これは1907(明治40)年3月阮権(校長)、梁文干(創立者) 等の知識人によってハノイに建てられた一私塾であるが、福沢諭吉の慶應義塾 にならい、教育活動を通じて近代化をもくろんだ。」

 「いったい中国では義という文字は慈善事業を意味するのに用いられている。 しかし福沢は慶應義塾において学生からはじめて授業料をもらう制度を創って いる。慶應の場合の「義塾」というのは、当時のメドハースト清英辞書などに 「義学」をパブリック・スクールと訳してある場合の「義」の意味、すなわち 公共の学校の意味にもとづいたものであろう。東京義塾の経営は学校内外から の支持者の寄付を主体としていたので学生たちは学費を必要とせず文房具も支 給され、中国語、フランス語、ベトナム語で授業を受けた。この点中国の「義 塾」の名にふさわしく、また、学生層も成年、青年を問わず、また男女共学で、 昼間部、夜間部をもうけてそれぞれ勉強させた。男女共学制の如きは日本のそ れよりも一歩さきんじていたといえる。そして従来の科挙登第を目標とした勉 学に反対し、実学を重んじ、国学、自然科学、政治経済を学び、生活方法も歯 を染めたりする陋習を排斥し、頭髪も近代化し、国産品を愛用する等まったく 旧式の学校と趣を異にしていた。しかも東京義塾は、単なる学塾ではなく、印 刷所ももち、出版に、演説に、その活動は一種の教化運動であり、機関誌『登 古叢報』を発刊し、漢字の外に「字喃(チュノム)」体の俗字、及びローマ字体 の国語(コクギュ)も併用し、漢字だけを正字として重んじた当時の学風を批 判した。」

 「愛国人士はこぞってこの東京義塾の運動を支持し一時千人の学生が集った が、次第に急進的になるのをとどめ得ず、学校はさながら反仏運動の中心とな った、このためついに11月フランス当局のために閉鎖を命じられ、阮権等は 逮捕されてプロ・コンドール(監獄)に送りこまれた。」

 「9カ月で終りをつげた東京義塾ではあったが、この運動がその後のベトナ ムに与えた政治的、文化的影響はすこぶる大きく、ハノイ付近には義塾の分校 が各地に設けられ、またその形態をまねた梅林義塾、玉川義塾等の私塾が各地 に開設された。」

 「東京義塾が福沢の慶應義塾にならったものであるということは北ベトナム の代表的な歴史学者である陳輝燎(チャンフイリョウ)氏がその『越南人民抗 法八十年史』(同書中国訳本、131ページ)中に明言しているところであるが、 潘佩珠がその『海外血書続篇演歌』の最後に

  「今より後は同胞(はらから)よ 誰か何処にルソーや

   福沢諭吉たらんものの 出現(いで)て努力(つとめ)よ努力よや

             (川本邦衛、ベトナムの詩と歴史、418ページ)」

と歌っているというから当時新学を普及しようとした知識人の間に福沢及びそ の開化運動がよく知られており、「義塾」の名がその意味で利用されたことは十 分に理解されるのである。」