「…にもかかわらず」杉原千畝と肥沼信次2017/03/25 06:36

 杉原千畝(1900~1986)が、第二次世界大戦中、駐リトアニア領事代理とし て、ナチスの迫害を逃れようとリトアニアに殺到し、亡命を求めるユダヤ系ポ ーランド人難民に、ナチスとの外交関係を考慮した外務省の反対にもかかわら ず、日本通過ビザを発給し、6,000人ものユダヤ人の命を救った話は、映画『杉 原千畝 スギハラチウネ』(2015年)にもなって、よく知られている。

 2月5日、たまたま日本テレビで「ドイツが愛した日本人」という番組を見 た。 第二次世界大戦後のドイツで、発疹チフス患者の診療に力を尽くし、多 くの命を救い、自らも若くしてこの世を去った日本人医師がいたのだ。 その 人の名は、肥沼信次(こえぬま のぶつぐ・1908~1946)、大戦前夜の1937(昭 和12)年、アインシュタインに憧れて放射線医学の研究者を志し、29歳で名 門ベルリン フンボルト大学に留学した。 研究は進んでアジア人初の教授資格 を得るところまでになるが、大戦の戦況が悪化して、それも消えてしまう。 大 使館から帰国指示が出たにもかかわらず、ドイツに残った肥沼は、大戦後ベル リンを離れ、ドイツ北東部、ポーランドとの国境に近い古都ヴリーツェンへ行 く。 ヴリーツェンでは当時、発疹チフスが猛威を振るっていた。 ヴリーツ ェンにドイツ占領ソ連軍が創設した伝染病医療センター初代所長となり、十分 な医療体制も、薬もない中、肥沼は発疹チフスに苦しむ人々の治療に献身し、 たくさんの命を救った。 薬を求めて、ベルリンに行ったりもしている。 し かし、自身も発疹チフスに罹り、1946(昭和21)年3月8日、37歳で死去し た。 死の直前、「日本の桜が見たい」と言い残したという。 東京の八王子で 外科医をしていた父・肥沼梅三郎は1944(昭和19)年7月に亡くなっており、 その最期を看取ることもできなかった。

 番組では、俳優の佐々木蔵之介が、ヴリーツェンを訪れ、肥沼信次の足跡を たどった。 市長を始め、肥沼医師といっしょに仕事をした看護婦や、祖父を 救ってもらったという少年に会い、肥沼の献身的な働きぶりや、彼に対する感 謝の気持を聞いた。 今は市庁舎となっている建物の地下にあった伝染病医療 センターの部屋や、肥沼信次の墓も訪れた。  ヴリーツェン市は1992年、肥沼に名誉市民の称号を与えたという。

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