明るい「北斎の晩年」像2017/03/26 06:57

 2月16日に「北斎を描いた藤沢周平の『溟い海』」を書いた、葛飾北斎の晩 年であるが、NHK日曜美術館は藤沢周平とまったく違う見方をしていた。 1 月8日放送の「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」である。 晩年の北 斎は抜きん出て輝いていて、高齢化の進む社会を生きる、われわれ老人に勇気 を与えるものであった。

 北斎の死後40年、明治26年に出版された飯島虚心の『葛飾北斎伝』が最初 のまとまった伝記で、晩年の北斎の姿をリアルに描き出している。 茶も飲ま ず、酒もたしなまず、金を遣い尽くし、いつも貧乏で、心はひたすら絵を描く ことに向けて、打ち込んでいた老人であった。 <八の字のふんばり強し夏の 富士> 北斎。 72歳で《富嶽三十六景》を描いた葛飾北斎は、75歳から「画 狂老人卍(まんじ)」の雅号を使い始めた。 《富嶽百景》全三冊102点の奥 付あとがきに「七十五齢 前北斎為一改 画狂老人卍」として、「70歳まで描 いたものなど、取るに足らないものばかりだ。73歳で生き物の骨格の基本の成 り立ちをいくらか悟った。80歳にはますます進歩し、90歳になればその奥義 を極め、100歳になったら、まさに神業の域に至るだろう。そして110歳には、 絵の一点一格まで生きているように見えるだろう。」と記した。

 80代には毎朝、日課で毎日異なった図柄の獅子や獅子舞の絵を描き、日付を 入れて、丸めると、ポイと外に捨てた。 娘の阿栄が密かに拾っておいたので、 ≪日新除魔≫が残った。 飢饉で経済も停滞し、人々の心が荒んだ天保年間、 「天保の改革」で創作活動も制限された80代になって、83歳から4回信州の 小布施まで出かけている。 小布施の豪農で文人の高井鴻山の招きで、屋敷の 中にアトリエを設けてもらい、自由に描いた。 小布施では、86歳で祭屋台の 天井絵を描いている(長野県宝)。 上町(かんまち)の《怒涛(男波・女波)》 と、東町の《龍と鳳凰》で、小布施の北斎館に展示されており、《怒涛》祭屋台 は5月から大英博物館で開催される「北斎―富士を超えて」展での展示が検討 されているという(10月からは、あべのハルカス美術館で帰国展)。

 娘の阿栄によると、90近くなって、炬燵に足を入れて横になっていても、毎 日筆を取っており、猫が上手く描けないと嘆いたという。 龍が富士山から黒 雲に乗って天に昇る、最後の傑作《富士越(こしの)龍》を描き、1849(嘉永 2)年数え90歳で、「天がもし五年長生きさせてくれたら、本物の絵師になれ るだろう」と言って、死んだ。

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