「桂川 お半長」成駒家は慶應一家2017/04/12 06:31

 二、「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」。 京都柳の馬場押小路の呉服店帯屋 の主人長右衛門(坂田藤十郎)、妻お絹(中村扇雀)を、義母のおとせ(上村吉 弥)と連れ子の儀兵衛(市川染五郎)が責めている。 おとせは、集金した勘 定を使い込んだのではないかと責め、儀兵衛は「長さま参る、お半より」とい う手紙をちらつかせる。 義兄の長右衛門が伊勢参りの途中、ひょんなことか ら隣家の信濃屋の娘お半(中村壱太郎(かずたろう))と関係を持ち、孕ませて しまったというのだ。 妻お絹が、「長さま」の「長」は長右衛門でなく、信濃 屋の丁稚長吉(中村壱太郎、二役)だろうと言うので、儀兵衛は長吉を連れて 来て、問いただす。 この長吉とのやりとりが可笑しい。 終盤、お姫様のよ うなお半が登場、書置きを残し、それを読んだ長右衛門が後を追って、心中へ と向かう。

 この芝居で、一番拍手をもらったのが、この長吉とお半の二役だった中村壱 太郎である。 たまたま届いた『三田評論』4月号「執筆ノート」に、中村扇 雀が『三代目扇雀を生きる』(論創社)を書いていた。 扇雀は、昭和35(1960) 年に、現・藤十郎と扇千景の子として生まれ、幼稚舎に入学した6歳の6月6 日から日本舞踊の稽古を始め、その年の11月に歌舞伎座で初舞台を踏んだが、 8歳から22歳で法学部と體育會ゴルフ部を卒業するまで、14年間は歌舞伎の 舞台に立つことがなかった、そのブランクを埋めたのが、とりわけ勘三郎との 交流だったという。 「学業優先」は家の方針のようだ。 扇雀の二つ上の兄 が中村鴈治郎(元の翫雀)で、彼も慶應法学部の出身、その子が中村壱太郎で、 2013年に総合政策学部を出たというから、成駒家(屋でなく家の方)は慶應一 家なのだった。 私などは、扇雀といえば父親の現・藤十郎であり、祖父の鴈 治郎も映画のいやらしいおじさん役でよく観ていた。

 そこで落語「どうらんの幸助」だが、桂米朝の『続 米朝上方落語選』(立風 書房)にあった。 割り木屋(薪屋)の幸助は、丹波の篠山から大阪に出て来 て、わき目もふらず働き店を持つまでになったので、芝居も浄瑠璃も寄席も見 たことも聞いたこともない。 道楽といえば、喧嘩の仲裁。 たまたま稽古屋 で浄瑠璃の「桂川 お半長右衛門」の稽古をしているのを覗く。 帯屋の婆が嫁 をいじめ、「親じゃわやァい、チェーあんまりじゃわいなあ……」というのを聞 いて、上がり込み、話を聞く。 「よーう教えてくれた。……そうか、よしッ、 俺も聞いた以上はほっとけん性分や。ほな俺ちょっと、京都までこの裁きつけ にいく」。 三十石船で、京都は柳の馬場押小路に乗り込むと、また拍子の悪い ことに、帯屋さんが一軒あった。 番頭が応対して、「気楽なお人やな、あんた、 お半長ならとうの昔に桂川で心中しましたがな」 「えッ、死んでしもたか、 アー汽車で来たら良かった」