市川猿之助の「ファミリー・ヒストリー」2017/04/14 06:28

 今年の3月で惜しくも最終回の総集編が放送されたNHKの「ファミリー・ ヒストリー」だが、亀治郎から四代目市川猿之助を襲名した2012年の11月5日 に市川猿之助の放送があった。 印象深い番組だったので、たまたまビデオに 残していた。 歌舞伎を支えた女たち、歌舞伎の家に生れて役者になれない女 性の問題が、浮かび上がる物語だった。 四代目市川猿之助、喜熨斗(きのし) 孝彦が、自分を含め喜熨斗家・澤瀉屋(おもだかや)の男たちは女々しいけれ ど、それを支えた女たちは強くて立派だと語っていた。

 キーパーソンのゴッドマザーは、孝彦の高祖母・古登。 古登は江戸から明 治にかけて吉原で繁盛した大店の妓楼、中米楼の長女で、文久元(1861)年生 まれ、花柳流の踊りの名手だった。 近くには芝居町の猿若町があり、役者の 喜熨斗亀治郎(初代市川猿之助)と結婚して、宮戸座近くに住んだ(猿之助横 丁の碑がある)。 初代猿之助は一時、師匠の団十郎に破門されて、妓楼・澤瀉 楼を営む。 実は古登、それ以前に三輪平太・相生太夫という京都出身の義太 夫語りと結婚したが、その女性関係から離婚、実家に帰り娘辰子を育てていた。  辰子は跡見女学校を出て、古登が援助していた医学生赤倉喜久雄と結婚、現在 の浅草公会堂のそばで十全堂という産婦人科医院をやっていた。 明治44年4 月9日の吉原大火で、古登は避難する前に髪結を呼び、遊女たちの髪をきちん と結わせたというが、中米楼はきっぱり廃業する。

 時代は昭和になる。 初代猿之助と古登の子が政泰(二代目猿之助・孝彦の 曾祖父)で、その子政則(三代目市川段四郎・孝彦の祖父)は三十歳まで独身 だったが、「あれが欲しい」というのが映画女優高杉早苗、当時二十歳のアイド ルだった。 辰子が仲人の役を果たす、高杉早苗は辰子の娘が結婚した相手の 妹だったのだ。 政則、高杉早苗夫妻に三人の子、政彦(三代目猿之助)、靖子、 宏之(四代目段四郎・昭和44(1969)年慶應義塾大学卒、孝彦の父)が生ま れる。 戦後高杉早苗が銀幕に復帰したのは、一家五人だけで暮らす、独立し たマイホームを建てるためだった。 靖子は、歌舞伎役者にはなりたくてもな れず、結婚して子も産むが、離婚して女優となる。 孝彦は、この伯母を「竹 を割ったような性格」と言い、喜熨斗家の女たちの意地を語る。

 もう一人の女性は貞子シモンズ(当時91歳)、夫のビルとアメリカ、ヒュー ストンに住む。 初代猿之助と古登の三男倭貞(八代目市川中車)の娘(大正 10(1921)年生れ)だから、孝彦の大叔母にあたり、「孝ちゃん」と呼ぶ。 日 本語をまったく忘れておらず、とうとうと語る。 本家の支配が強く、女には 芸事は教えない、男が一生かけてやる仕事だと、いわれて育った。 昭和12年、 淡い恋をしたが、相手は兵隊に行って死ぬ人だと父親が反対、次の大学野球の 選手も、妹が結核だからと反対され、何者にもなれない焦燥感から日本を出て 仕事をすることを考えた。 満州で新京の電信電話会社員と、昭和18年に結 婚するが、何もかもだらしない人だった。 夫の出征で帰国すると、東京は焦 土で、父はラジオドラマの仕事をしていた。 離婚して、米軍基地で働き、米 兵と再婚してアメリカへ、その夫は5年後の昭和35(1960)年アルコール依 存症で亡くなる。 日本国籍を失っていたため、帰国できずに2年、消防士の ビルと再々婚、息子ボビーを授かって、幸せに暮らしている。 日本では昭和 50(1975)年に孝彦誕生、いたずらで、可愛い、ゴザを持って来て、歌舞伎ご っこをして遊んだと言う。 本心は、男に生まれたかった、父中車と一緒に舞 台に立ちたかった。 彼、孝彦は出来ると思う、期待している、と語った。 そ の大叔母を、孝彦、四代目市川猿之助は「かっこいい」と言った。