次第に「国策会社化」する電力会社2017/04/22 04:58

 竹森俊平教授は、橘川武郎氏の『日本の電力業発展のダイナミズム』によっ て、電力業界のさらなる変貌の軌跡を追う。 少なくとも1960年代中頃まで は、政府・通産省との間に十分な距離を置いていた電力業界が、次第に国策会 社的な性質を持つようになっていく。 もちろん、価格規制を必要とする「自 然独占」(「競争」を発生させるためには必要がない投資を重複しなければなら ず、無駄が発生する場合)という電力業の特徴からして、電力業界が政府から 完全に独立であることは初めから無理なのであるが、価格規制以外の分野でも、 政府との接近が不可避となる出来事がつぎつぎと起ってくる。

 日本の電力会社が「国策会社化」する第一のきっかけは、日本の国内市場を 国産メーカーのために確保することを通じて、国産メーカーの育成を図ろうと いう産業政策に、電力会社が付き合わされたことである。 具体的には、発電 機を生産する重電機メーカーの育成のために、電力会社が「1号機輸入、2号 機国産」という方針で、発電設備の発注を行ったことだ。 この方針は、大型 火力発電所の建設にも適用されたが、原子力の場合には、特にはっきりとした 形で推し進められた。 東京電力は、福島原子力発電所の一号機建設に当たっ て、GE社が主契約先であったにもかかわらず、圧力容器の制作と原子炉周り の据え付け工事は、東芝と石川島播磨とに下請けを依頼し、タービン発電機の 据え付け工事は、日立製作所に下請けを依頼するなど、「日本原子力発電」敦賀 発電所の建設時の両社の下請け担当範囲を入れ替え、技術経験が蓄積するよう 配慮した。

 原子力発電は日本の電力会社にとって鬼門であった。 それまで政府とある 程度の距離を保っていた電力会社は、特に原子力をめぐって、政府の方針にど んどん吸い寄せられていったのである。 この傾向は、1970年代に入ってます ます加速することになる。 発電所用地の取得困難、環境問題への認識の深化 から、窮地に立たされた電力会社は政府に救援を求め、両者の間には次第に持 ちつ持たれつの関係が築かれていき、1974(昭和49)年に成立した「電源三 法」の成立で、電力会社が政府の庇護の下に活動するという構図が確立した。  さらに発電所用地確保の困難は、火力や水力に比べて、原発の場合、リスクが 別格だから、その困難を乗り越えるために、政府の一層強力なバックアップが 必要だった。 株主に対しても、なぜそんな無理をしてまで原発を建設するの かと、問われた時に、「国策」を遂行しているのだという大義名分が必要だった。  こうして原子力政策の推進を通じて、電力会社は「国策会社化」していく。 原 発反対運動の高まりに対抗して原子力開発を推進するには、九電力会社は、「国 のエネルギー政策への協力」という「お墨付き」を必要不可欠とするようにな った。 日本の原子力発電事業は、「国策民営」の性格を色濃くするようになっ たのである。 

 松永安左エ門は1971(昭和46)年に97歳で大往生を遂げた。 その前年に は関西電力が美浜に、電力会社による商業用原子炉の一号機を建設して、操業 を開始しているから、日本における原子力事業の展開を、ある程度は見ていた はずだ。 彼が、自ら創設して委員長を務めた「産業計画会議」の1956(昭和 31)年の「レコメンデーション」と呼ばれる報告書がある。 松永の見解は、 原子力を商業べースで活用するのは、まだまだ時期尚早で、検討に値しないも のである以上、電力業界に無理やり原子力発電を押し付けるようなことは、日 本経済に歪みをもたらすから、やめてくれというものだった。 その採用は、 電力会社が純粋に経済コストの観点から考えて、原子力が一番有利だと判断す るようになる時期まで、待ってくれということだった。 松永がこれだけはっ きりと、電力業界は原子力発電の商業化に協力しないとはねつけているのであ るから、1960年代に日本がイギリス産原子炉の建設を進めるときに、「国策会 社」である「日本原子力発電」に事業を委ねるしか国には選択肢がなかったの だろう。 竹森俊平教授はそして書く、「だが、このような松永の断固とした姿 勢を、その後の電力会社の経営者は引き継ぐことができなかった。もし、電力 会社の歴代の社長が、このレコメンデーションを座右の銘としてしっかり心に 刻んでいたなら、日本の電力業と、日本経済そのものの運命は大きく変わって いただろう。」と。