大学の独立と自由<等々力短信 第1094号 2017.4.25.>2017/04/25 04:56

 桜にぴったりの暖かさになった4月5日、朝刊を読んで爽やかな気分が倍増 した。 朝日新聞の「耕論」「大学の独立」で、都倉武之さん(慶應義塾大学福 澤研究センター准教授)が、こう語っていた。 「現在の私立大学は政府とな れあいにならざるを得ない環境に日常的にあり、「独立」といった基本理念を意 識するのが難しくなっています」、「外部資金や補助金を得るためには、国が何 を判断基準として配分しているかを忖度(そんたく)する必要があります」、「『独 立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐る る者は必ず人に諛(へつら)うものなり』というのは、有名な『学問のすゝめ』 の一節です。いまの文部科学省と私立大学の関係に照らして、どう読めるか。 残念ながら現状そのものではないでしょうか」と。

 私は、かねてから福沢が生きていたら、私学への助成金を辞退するだろう、 と思っていた。 慶應が辞退すると、他の学校が困ると、各界で叙勲辞退がで きない理由と同じことを言う人がいるけれど…。 助成金を辞退した場合、そ の金をどこから持って来るか。 慶應には早稲田などがうらやむ、三田会とい う寄付金集めのシステムがある。 10年毎の連合三田会大会当番、卒業25年 と50年の卒業式・入学式招待、卒業51年以上塾員の招待会、評議員選挙など を通じて、名簿はきちんと把握されている。 そこで私が寄付をするかといえ ば、話は別だ。 高校生の頃、学校から来る募金を心配する母親に、慶應には 金持が沢山いるんだから、家なんかはいいんだよ、と言っていた。

 話が小さくなった。 同じ「耕論」で、落語研究会のプログラムに毎月「新・ 落語掌事典」を連載している田中優子法政大学総長が、法政大は1月、軍事研 究は行わないこと、防衛省が募集する研究制度への応募は当面認めないことを 決めた、「「学問の自由」とは、研究者たちが国から独立している状態、自立し て物を考え、研究している状態のことだと考えます。軍事研究では、その自由 が保障されません」と言っている。

 『福翁自伝』「老余の半生」には、こうある。 「文明独立の本義を知らせよ うとするには、天下一人でもその真実の手本をみせたい。」「一国の独立は国民 の独立心から湧いて出てることだ、国中を挙げて、古風の奴隷根性では迚(と て)も国が持てない。」「自分がその手本になってみようと思い付き、人間万事 無頓着と覚悟をきめて、ただ独立独歩と安心決定したから、政府に依りすがる 気もない。役人たちに頼む気もない。」「一切万事、人にも物にもぶら下がらず に、いわば捨て身になって世の中を渡るとチャント説をきめているから、何と しても政府へ仕官などは出来ない。」

緒方洪庵の墓、「おとめ山公園」2017/04/25 04:59

 4月22日の土曜日、「早稲田・白山・駒込を訪ねて」という福澤諭吉協会の 第26回一日史蹟見学会があった。 最後の駒込というのは、福沢の師・緒方 洪庵の墓所のある高林寺と、福沢が庇護した朝鮮の開化派・金玉均の墓所のあ る真浄寺を訪ねるものだった。 実は私は、1990(平成2)年の同じ4月22 日に行われた第2回一日史蹟見学会で、高林寺と真浄寺に行っていた。 27年 前になる。 当時は若手の会員だったが、今は古参になっていることを実感す る。 その時は諭吉の曽孫・福沢美和さんが盲導犬アンナと参加されていて、 緒方洪庵の墓の前で、こちらも曾祖父だからと花を手向けられたのが印象に残 っている。 『福澤諭吉全集』第26巻の「福澤諭吉子孫系圖」を見ると、美 和さんは諭吉の長男一太郎の長男八十吉を父に、(緒方)淑子(よしこ)を母に、 長女として昭和2(1927)年に生れている。 この母上が洪庵の孫なのだろう。  美和さんは先年亡くなられて、遺産が福澤諭吉協会に寄付されたと聞いている。

 一日史蹟見学会では、同行の方からも、いろいろな情報を得ることが出来る。  このブログを読んで下さっている黒田康敬さんには、松永安左エ門について、 全く知らなかったことを教えて頂いた。 今回行った早稲田最寄りの高田馬場 近くに「おとめ山公園」というのがあるが、ここに松永安左エ門が住んでいて、 戦時中、空襲に遭った人々に炊き出しをしたという話だった。 さっそく「お とめ山公園」で検索する。 新宿区下落合2丁目、新宿区が整備し平成26年 10月26日に「区民ふれあいの森」として全面開園している。 妙正寺川・神 田川の落合崖線に残された斜面緑地。 江戸時代、この辺りは将軍家の鷹狩や 猪狩の場所で、湧水が他にないため休息所とされ、一帯を立ち入り禁止として 「御留山」と呼ばれたのが、現在の「おとめ山公園」の名前の由来だという。  明治以降は東西に二分され、東側を近衛家、西側を相馬家が所有し、屋敷を構 えた。 相馬家は大正3(1914)年に長岡半平に広大な庭園「林泉園」を造ら せた。 その後、松永安左エ門の自宅兼茶室となっていた、という。 「炊き 出し」の件は、出て来なかった。 東西とも、戦後大蔵省管轄地となり放置さ れていたのを、森林の喪失を憂える地元の人たちが「落合の秘境」を保存する 運動を起し、昭和44(1969)年に新宿区が一部を公園として開園した。 隣 接地も取得し、拡張整備事業を進め、平成26年に「区民ふれあいの森」とし て全面開園したのだそうだ。