護国寺、大隈家墓所の四つ墓2017/04/26 07:14

 今回の一日史蹟見学会、「早稲田」については、素晴らしい案内人、解説者を お迎えしていた。 3月25日の土曜セミナー(まだブログで触れていない)の 講師でもあった佐藤能丸(よしまる)さんである。 早稲田大学大学史編集所 (現、大学史資料センター)で『早稲田大学百年史』の編纂に従事し、さらに 大学史・大隈重信関係その他の研究と共に、教育学部・政治経済学部で日本近 代史講義を担当、現在は早稲田大学エクステンションセンター・オープンカレ ッジ講師を務めている。 『近代日本と早稲田大学』『大学文化史』という著書 もあり、日本近代史関係の多くの辞典・事典の執筆や編纂に関わられた話は土 曜セミナーでお聴きした。

 池袋で集合、バスで最初に訪れた護国寺に佐藤能丸さんは待っておられた。  本堂の右側の広い一画、大きな石の鳥居の奥が大隈重信の墓所である。 「従 一位大勲位侯爵大隈重信之墓」と刻まれた墓標は、高さ約4・6メートルと見 上げるようで、麻布善福寺の福沢の墓の小ささとは対照的だ。 大隈の命日は 大正11(1922)年1月10日、偶然福沢の誕生日と同じで、早稲田では墓参、 慶應では誕生記念会がある。 17日自邸で神式の告別式の後、日比谷公園で国 民葬、護国寺までの沿道とで150万人が見送ったという。 大隈の墓の左側に は、翌年に没した綾子夫人の墓、右側に大隈の母堂三井子刀自の墓、その手前 には大隈の長女熊子の墓がある。

 綾子夫人は、旗本三枝七四郎の次女、江戸で育った。 若い時から評判の美 人で、明治2(1869)年19歳で31歳の大隈と結婚、以後50年連れ添い、し っかり者で几帳面、夫妻の仲むつまじさは当時評判だった。 後で、大隈庭園 でその銅像を見た。

 大隈の長女熊子は、文久3(1863)年佐賀に生れた。 母美登とは大隈の維 新政府出仕の頃離別、明治4(1871)年祖母三井子に伴われて上京、以来祖母・ 父・綾子夫人と生活した。 明治12(1879)年旧南部藩主の二男英麿(東京 専門学校初代校長)を婿養子に迎えて結婚した。 一時、仙台で暮したが、英 麿の東京高等商業学校就任で上京、夫妻共に早稲田の大隈邸に入った。 明治 35(1902)年英麿が連帯保証人になった件で大隈家から離別することになった が、熊子は大隈家に留まり、実妹光子(こうこ、生母は千代。)を養女として松 浦詮の五男信常を配して嗣子とした。(「実妹・生母は千代」は『エピソード早 稲田大学125話』(1989年・早稲田大学出版部)で佐藤さんが初めて明らかに したそうだ。大隈重信の血が信常の子信幸につながることになる。顔が重信に よく似ていたという。)

 熊子は、このように実母と夫とに生別するという境遇をたどり、その生涯を 大隈家の奥向き一切を事実上取り仕切ることに費やした。 明治22(1889) 年の遭難によって身体不自由となった父と感情の強い義母によく仕え、万事行 き届いた熊子の処置が、交際の広い大隈家に誰よりも必要とされたからであっ た。 容色秀麗のみならず、稀にみる教養人だったという。 酷評家で知られ る大隈のかつての盟友犬養毅でさえも、「熊子さんは男であらうものなら老侯よ り偉らかつたらう。政治家としても事業家としても大きなものになつたらう。 実に敬服すべき人だ」と賞賛した。