大隈重信の右脚は残った2017/04/29 06:30

 明治22(1889)年10月18日午後4時過ぎ、御前での閣議を終えた大隈外 相は、馬車で霞が関の官邸に向った。 馬車が外務省の門前にさしかかったと ころ、フロックコート姿の男が近づいて来て、馬車をめがけて爆弾を投げつけ た。 大隈は「馬鹿者めが」と男を一喝したが、右足に重傷を負った。 男は 爆弾の破裂を見とどけると、短刀で咽喉をかき切り、その場に斃れた。 犯人 は、大隈の条約改正案に反対する福岡出身の玄洋社社員来島恒喜とわかった。  被害者である大隈は、来島を「愛国の精神を以て行動したる志士として賞賛」 し、その行為も「献身的行為にして身を殺して仁を成したるものなり」といい、 「勇者」と称え、毎年その命日には度量の広い綾子夫人と共に墓前に香華を手 向けたという。

 大隈重信記念室に、大隈が遭難当時身につけていた破れた衣服と靴や帽子が 展示されている。 大隈は馬車の中で、左脚に重ねて組んでいた右脚の膝と足 首の二か所に、致命的な損傷を受けていた。 大隈は気丈にも「速やかに切断 せられよ」と言い、駆け付けた帝大のベルツ博士の立ち合いで、日赤の橋本綱 常医師の指示のもと、順天堂の佐藤進医師の執刀で手術が行われた。

 切断された右脚はアルコール漬けにされて、大隈邸に置かれていたが、やが て赤十字中央病院に寄付され、参考品として保管されることになった。 現在、 渋谷の日本赤十字看護大学に移管され、ホルマリン漬けで保存されているとい う。(『エピソード早稲田大学125話』(1989年・早稲田大学出版部)、丸尾正 美氏の記述による。) なぜ、大隈重信逝去の際に、一緒に護国寺に埋葬されな かったのか。 市島春城『大隈侯一言一行』に、そういう話もあったが、「赤十 字社では、偉人を記念する意味と医学上の研究に資する目的とから、矢張、大 切な宝として、赤十字に保存したいと言うので、到頭、其意を容れて、棺に収 めなかった。」とあるそうだ。