東洋大学・井上円了と慶應義塾・福沢諭吉2017/04/30 06:46

 早稲田大学南門前の老舗レストラン「高田牧舎」で昼食。 明治38(1905) 年4月「ミルクホール」として開店、穴八幡神社のある高田町に牧舎があり、 売り物の新鮮な牛乳が毎朝、大隈邸にも届けられていたので、「高田牧舎」とい う屋号にしたという。 サラダ、オードブル、薪窯焼ピッツァ二種、フジッリ (らせん状)パスタなど、学生街らしいボリュームで美味しかった。

 昼食後、東洋大学白山キャンパスへ。 現代的で立派なキャンパスの再開発 や学部増設には、塩爺こと塩川正十郎の功績が大きかったらしい。 塩川正十 郎(1921(大正10)年-2015(平成27)年)は、慶應義塾の先輩で、第一次 小泉内閣で財務大臣を務めるなど大臣を歴任、東洋大学では理事長や総長を務 めた。

 東洋大学の三浦節夫教授のお話を伺う。 教室に座ると、すぐプリントと、 新書版の『井上円了の教育理念 歴史はそのつど現在が作る』(東洋大学・平成 29年改訂第20版)が配られたので、私は言った「あとで試験があります!」。  井上円了(安政5(1858)年-大正8(1919)年)は、哲学者、東洋大学の前 身哲学館の創設者、仏教近代化の先駆者。 越後長岡(三島郡浦村)の真宗大 谷派(東本願寺)慈光寺の長男、長岡洋学校の後身である新潟学校第一分校を 経て、東京大学文学部哲学科(フェノロサに西洋哲学教わる)を卒業。

 私は2008年10月11日と12日、福澤諭吉協会の旅行で長岡を訪ねた。 初 期の慶應義塾にどこからの塾生が多かったかというと、まず中津、紀州、そし て長岡だったのだ。 長岡は、戊辰戦争での荒廃から立ち直るために、「米百俵」 のエピソードで知られる教育による人材育成を進めたのであった。 学校を設 立し、東京にも多くの学生を送った。 長岡出身で明治3年6月に入塾し、5 年暮には早くも英学の教員となり、後には徳島慶應義塾の校長も務めた城泉太 郎の回想によると、藤野善蔵、芦野巻蔵、小林寛六郎(「米百俵」の小林虎三郎 の弟)、小林雄七郎(同)、秋山恒太郎、名児耶六都、外山修造、栗山東吾、牧 野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、牧野鋭橘(藩主)、中島武藤太、 高野弥次郎などの、旧長岡藩士の名前がある。 それ以前にも、小林見義、渡 部久馬七、山田鶴遊が入塾していた。

 中でも藤野善蔵(弘化3(1846)~明治18(1885))は、福沢が深い信頼を 寄せていた人物で、蕃書調所で旧知の小幡篤次郎の紹介で明治2年5月に慶應 義塾に入った。 明治5年、長岡に「洋学校」が出来ると、月給125円という 高給で英学教授として招かれ、慶應義塾のカリキュラムと教科書とで、長岡中 学につらなる近代教育の基礎をつくった。

 井上円了は、そのように福沢と慶應義塾の影響を受けた長岡洋学校の後身で ある新潟学校第一分校で学んだ。 三浦節夫教授は、井上円了の思想形成に福 沢が関係していることを指摘している。 「福沢翁の早く欧米の文明を調理し て我通俗社会をして其味を感せしめたる活眼とは余が夙に敬慕する所にして、 (中略)哲学の思想を民間に普及せしむるには福沢翁を模範」(『甫水論集』博 文館、明治35年)(「甫水(ほすい)」は「浦」村出身だった円了の号) 福沢 も井上も在野精神を持つ、「無官無位無勲章」。 白山のすぐそばの駒込の、こ の後、訪れた、金玉均の墓所のある真浄寺(大谷派)の寺田福寿(慶應義塾出 身)は、福沢・井上双方と親交があり、両者を媒介したと考えられている。 井 上は哲学館(東洋大学の前身)の三恩人として、この寺田福寿と、加藤弘之、 勝海舟を挙げている。 加藤弘之は、日本にはじめて立憲思想を紹介し、進化 論を中心にした政治哲学を展開、明治14年に東京大学初代総理になった。

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