井上円了と石黒忠悳、福沢を冷やす氷2017/05/01 07:10

 東洋大学の三浦節夫教授が配ってくれたプリントには「第一章 創立者井上 円了」とあるので、おそらく『東洋大学百年史』のコピーではないかと思う。  「第一節 小伝」「一 履歴書・読書録(明治八年)」がある。 明治8(1875) 年というと、井上円了17歳の時のものである。 明治元(1868)年春より2 年の春まで、10歳からの一年間、石黒忠悳(ただのり)に学んだとある。 三 浦教授によると石黒忠悳は、円了の慈光寺のある浦村の隣村、片貝村に明治維 新により一時帰郷していた。 当時23歳、蘭方医で後に軍医総監になった人 だから、漢籍を教えたが、褒美に洋紙をくれたりしたというから、西洋のこと も語ったのであろう。 円了は歩いて一時間ほどの道を熱心に通い、大雪の日 に戸を叩くのを、石黒夫妻は「円了だろう」と開けると、まさに円了がいたと いう。

 石黒忠悳の名は、福沢諭吉との関連で記憶していた。 明治3(1870)年5 月、福沢は発疹チフスにかかり、連日高熱が続いていた。 ドクター・シモン ズや高木兼寛の師ウィリス、伊東玄伯、石井謙道、島村鼎甫、隈川宗悦、早矢 仕有的という最高の医師団が治療にあたった。 福沢の高熱を冷やすために氷 が必要だったが、当時東京市中には氷を売る店がなかった。 たまたま旧福井 藩士主松平春嶽が製氷器を外国人から買って持っているが、使い方がわからず に放置しているという話を聞き、これを借り出して、福沢の親友の化学者で、 大学東校の教授宇都宮三郎に実験を依頼した。 宇都宮三郎は、いろいろと原 書も調べて、製氷を試みる。

 明治31(1898)年8月28日の『時事新報』は、宇都宮三郎が試運転をして 「何の苦もなく氷塊を造り出でたり」として「是れ実に本邦人造氷の元祖」と たたえているそうだが、実のところは、小さな氷塊がいくつか出来たという程 度だったらしい。 その時、製氷作業を手伝ったのが、石黒忠悳だった。 富 田正文先生の『考証 福沢諭吉』上(岩波書店)には、晩年の石黒忠悳に直接面 接して聞いた談話があり、皆で汗だくになって骨折ったが、結局結氷を見るこ とができず、やや冷たくなった水に手拭いを浸して、これでも氷のたまごだか ら、これで先生の額を冷やしたらどうかというくらいに過ぎなかった、とある。

 石黒忠悳は、弘化2年2月11日(1845年3月18日)父・平野順作良忠が 幕府代官の手代を務めていた奥州(福島県)梁川の陣屋で生れたが、父母が早 く亡くなり、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市) の石黒家の養子になった。 私塾を開き、松代の佐久間象山に会って感銘を受 けた。 江戸へ出て、幕府の医学所を卒業、医学所句読師となる。 幕府が倒 れて医学所が解散し、一時帰郷するが、再び東京に戻り、医学所の後身である 大学東校(東京大学医学部の前身)に勤める。 明治4(1871)年、松本良順 の勧めで兵部省に入り、草創期の軍医となった。 明治23(1890)年、陸軍 軍医総監、陸軍省医務局長。 除隊後、貴族院勅選議員、日本赤十字社社長。  昭和16(1941)年4月26日に96歳で没。 余談だが、その翌日、私が生ま れた。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック