慶應大学は大阪弁の大学か2017/05/10 06:33

 「枇杷の会」深川吟行句会後の小酌で、福沢諭吉は大阪弁だったという話題 が出た。 福沢は大坂で生れ、緒方洪庵の適塾で学んだ。 慶應大学は大阪弁 の大学、新島襄は江戸育ち、大阪でキリスト教の学校をつくろうとしたが、耶 蘇を反対され京都で同志社をつくった、というような話だった。 私は、聞か れたので、福沢は堂島の中津藩蔵屋敷で生れたが、父親が死んで数え3歳で中 津に帰り、一家は大坂風の生活をして中津に馴染めず、孤独な少年時代を過ご したという話をした。 先日、駒込の高林寺の緒方洪庵の墓へ行ったとも言っ たら、洪庵が江戸で死んだこと、幕府の要請で奥医師兼医学所頭取になるため、 江戸へ来たことは、知られていなかった。 洪庵の墓は、大阪市北区同心の竜 海寺にもあり、そこも行ったことがある。

 すると、たまたま、志木高新聞の創刊に当たり、中心になって活躍した一年 先輩の猪尾泰久さんが、<等々力短信>第1094号「大学の独立と自由」を読 んでだろう、4月28日の日本経済新聞夕刊「プロムナード」というコラムの切 り抜きを送ってくれた。 作家・門井慶喜さんの「慶応大学は大阪弁で」だっ た。 29日に居酒屋で出た話題は、これがもとだったのだ。

 門井慶喜さんは、中津では福沢一家の大阪弁の話が通じず、いじめられたか もしれない、青年となり再び大坂へ出て、一種、帰郷のようなよろこびも大き かったのではないかとして、「ざっくり言うと、慶応大学は、大阪弁でつくられ た大学なのだ」と書いている。 さらに、新島襄はアメリカから宣教師になっ て帰国後、はじめは学校を大阪にひらこうとして、「耶蘇は、あかん」と、市民 に拒絶された。 門井さんは、もしかすると、このこころみは、福沢諭吉なら 成功していたのではないか、大阪の人は、大阪弁で「建ててええか」と聞かれ れば、キリスト教の学校であろうとも、「ええよ」と応じたのではないか、彼ら には新島襄のぺらぺらの江戸ことばが気にくわなかった、というより、そもそ も理解できなかったのだ、というのだ。

 私は、猪尾さんへのお礼のメールに、こう書いた。 「「慶応大学は大阪弁で つくられた大学なのだ」というのは、ちょっとどうかと思います。 大阪弁と いうよりも、福沢先生が大坂の適塾で感じ、身につけたのは、大坂という経済 の町の合理性、武士よりも商人が力を持っている自由な雰囲気だったのでしょ う。」  <等々力短信>第1094号「大学の独立と自由」で扱った「私立」の学校と 政府の関係、福沢が国民の「独立心」と「官・政府・国」の関係を若くして悟 り、その後「官尊民卑」を攻撃してやまなかった発端は、適塾時代の大坂での 経験が大きかったと思われるのだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック