福沢の少年時代、「脱皮論」〔昔、書いた福沢22〕2017/05/11 07:15

 門前仲町の居酒屋で、「福沢は堂島の中津藩蔵屋敷で生れたが、父親が死んで 数え3歳で中津に帰り、一家は大坂風の生活をして中津に馴染めず、孤独な少 年時代を過ごした」と話した時、私の頭の中には昔「等々力短信」に書いた「脱 皮論」という一文があった。 それを再録する。

   脱皮論<等々力短信 第579号 1991.(平成3)9.25.>

 幼い頃よく、品川中延の父の家に今もある、座敷用の大きな堅木のテーブル の下に、もぐっていた。 その一人だけの空間にいると、何となく安心なので あった。 父はこの内気な次男坊の行く末を案じて、ある時、仕事で知り合っ た大学の先生に相談した。 その先生は、心配ないと答え、「内気は個性を守 る宝だ」と言った。 問題の少年は、その一部始終を聞いて、ちゃんと知って いた。 私は、そういう少年だった。

 獅子文六が、福沢諭吉を小説に書こうとして、断念したという話がある。  「小説の主人公になってもらうには、も少し不幸な生涯でないと、書きづらい のである。 も少し曲折だとか、陰翳がある方が、作者の腕がふるえるのであ る。 主人公というものは、人生の失敗を重ねてくれる方がいいのに、ほとん どトントン拍子である。 また性格が明るく、無類に健康的であって、まるで 朝の太陽である」。 殿様の名前が書かれた紙を踏んで、兄に叱られたが承服 できず、一歩進めて神様のお札を便所で踏んでみる実験をしたり、お稲荷さん のご神体の石を取り替えておいて、大人が次の初午にそれを拝んでいるのを面 白がったりした、『福翁自伝』の有名なエピソードを読んだ人は誰でも、カラ リと明るい性格の、少年福沢諭吉を思い描くであろう。

 中島岑夫さんの近刊『幕臣 福沢諭吉』(TBSブリタニカ)は、この定説 に疑問を投げかける。 大阪で父を亡くし、中津に「他所者」として引き揚げ てきた福沢一家は言葉も身なりも違う、先の大戦中の疎開者のような存在であ った。 中島さんは、自伝の中に中津時代少年期の友人は一人も登場しないこ とを指摘し、福沢が孤独で複雑な陰影を持った少年だったというのだ。 そし て福沢の「自由思想」(合理精神、批判精神)は、中津において「他所者」と して自己形成をとげていく過程が生み出したとするのである。 引っ込み思案 で、非社交的な長男一太郎を案じて与えた「拙者抔は少年の時は頗る世事に疎 くして、俗世界に対して寒暑の挨拶さえ六ケ敷(むつかしく)」という手紙も 傍証に引かれている。 福沢が、ぐっと身近に感じられるではないか。

 その福沢は、25歳で江戸へ出る道中、雲助などひやかしたのを手始めに、 江戸で他人付き合いをするうちに、だんだんよくしゃべり、交際も出来るよう に、脱皮した。 テーブルの下にいた少年はといえば、その福沢の倍の齢を重 ねたというのに、脱皮したのは、これも皮膚の一部と聞く、髪の毛だけ、とい うお粗末である。