本井英先生の句境を推察する2017/05/17 07:12

 本井英先生が到達なさっている高い句境、はっきりしたものをつかんだ、と いわれるのは、奈辺にあるのか、私なりに想像してみたい。

本井英先生の『夏潮』は、近代俳壇を代表する高浜虚子の唱えた「花鳥諷詠」 を信奉し、ひたすら虚子を求め、さらに虚子の求めた彼方を探る、姿勢と立場 をとっている。 本井英先生が慶大俳句「丘の会」で行った「表現と諷詠」と いう講演記録が、『夏潮』2014年11月号に載った。 虚子は「諷詠」をこう言 った、と語っている。 「諷詠」というのは心に思ったことを、そのまま叙す る。 あるいは心に思った相手への慮りを素直に述べることで、「挨拶ならざる 俳句はない」と言っても好いかもしれない。 また、詩にはリズムがなければ いけない。 調子がなければいけない。 意味を運ぶというよりも、心の中に ある気のようなものが、自ずから口を衝いて出て来る。 そこに言葉の好いリ ズム感が生まれる。 それが、実は俳句の本質なんだ、ということを。

これは折口信夫が奇しくも「最も純粋な日本の詩歌は無内容のものこそそう だ」と言ったのと同じで、「無内容」あるいは「構えたものでない」ということ が、一番大切なのだ、と。 一方、「表現」は、あるはっきりしたものが事前に 頭の中にあって、それを言葉で組み上げて他人に理解させようとする。 「諷 詠」は、そうではなくて、自然に「ぱっと」出て来てしまった言葉だろう、と。

 山内裕子さんの句集、『まだどこか』(ふらんす堂)に寄せられた栞「但馬派 を継ぐひとり」で、本井英先生は、京極杞陽先生の<花鳥諷詠虚子門但馬派の 夏行>を引き、但馬派の俳句や文学、その姿勢をつぎのような言葉で表してい る。 「こだわらない」、「こけおどしを言わない」、「読む人を圧迫しない」、「褒 められようとしない」、「素顔をかくさない」。

 渋谷句会では、最近「情がある」ということをしきりに言われる。 先日の 「枇杷の会」深川吟行の句会では、「口から出まかせ」、「読者のことなど気にし ない、自分にサービス」と、言われた。 

 私が自己流で俳句を詠むきっかけになったのは、落語評論に始まりエッセイ を愛読して私淑していた江國滋さんの『俳句とあそぶ法』(朝日新聞社・昭和 59(1984)年)だった。 その本には、ちゃんと、こう書いてあった。 「俳 句の三本柱は、たしなみと、つつしみと、はばかりである。」 そして、くりか えし、「ほどのよさ」と「さりげなさ」を説いていた。

 私は日頃、少しも俳句が上手くならない、と感じている。 このブログに、 毎月の渋谷句会の結果を報告している私は、毎度「鳴かず飛ばず」だの、「まず まず」だのと、言っている。 明らかに「褒められようとしない」に違反して いるのだ。 俳句では、理屈や説明はいけない、と教えられる。 ところが、 私は高校新聞出身で、5W1H、いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのよ うに、の六つをきちんと書き込めと教わった。 毎日、ブログの散文を書いて、 達意、内容をきちんと伝えようと努めている。 新聞はアッといわせる特ダネ を探し、随筆も何か新奇なことや、洒落たことを言って、受けを狙おうとする。  その助平根性から抜け出せないところに、わが俳句の上手くならない理由があ るようだ。 品というものがないのは、「花鳥諷詠」の道とは、ほど遠い。