「自由大学」を存続するための苦闘2017/05/26 06:59

 映画『鎌倉アカデミア 青の時代』に、「鎌倉アカデミア」について知らなか ったことがいろいろと出て来た。 プログラム代りに置いてあった中公新書、 前川清治著『三枝博音と鎌倉アカデミア 学問と教育の理想を求めて』を買っ て来た。 仮校舎となった光明寺は、浄土宗の大本山、鎌倉幕府の第四代執権 北条経時によって開基された古刹、広い寺域を持っていた。 最初の校長は飯 塚友一郎、演劇研究家で『歌舞伎細見』の著書があり、日大芸術学部の講師だ った。 「文学や演劇を語れない人間をつくってはならない」と説き、文化主 義の理想をかかげて大学づくりに取り組んだ。 モダン・ダンスを教えられ、 文芸誌『龍麟(りゅうりん…北条氏の家紋)』が発行され、演劇科の連中は早 速、菊池寛の『父帰る』を試演した(映画で再現された)。 この試演会の直 後、演劇科の村山知義、長田秀雄、久板栄二郎、遠藤慎吾、千田是也の五人の 教授が辞表を提出したのをきっかけに、学生大会が開かれ、夏休み中に飯塚校 長は辞任、校舎建設予定地だった鎌倉山の土地を所有していた理事も退いた。

 後任の学校長に、三枝博音教授が選ばれた。 哲学者で、日本の思想文化と 科学技術の歴史的伝統について研究していたが、治安維持法に触れ、大学教授 の職を失った一人だった。 教室の開山堂と本堂をつなぐ廊下には、三枝校長 がギリシャ語で刻んだ「幾何学を学ばざる者、この門に入るべからず」という プラトンの額が掲げられ、「楽しい学園・自由な人間づくりをめざす大学」を目 標とした。 光明寺での仮校舎は、寺院の目的外使用が出来なくなり、二年間 で終わった。 昭和23(1948)年4月からは、最寄り駅が大船なので「大船 校舎」と呼ばれた横浜市戸塚区小菅ヶ谷(こすがや)の海軍燃料廠跡を借用し て、校舎とした。 大蔵省は、横浜工業専門学校と半分ずつ使うことを、文部 省は「鎌倉大学校」を「鎌倉アカデミア」とすることを条件にした。 学校の 経済的危機を救うため、新しく「映画科」がつくられ、「産業科」は「経営科」 と改められた。

 創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、教授会と 父兄会と学生自治会の代表によって、鎌倉アカデミアの再建委員会ができた。 息子の山口瞳とその兄と妹の三人(同学年)を通わせていた父兄会会長の実業 家山口正雄が、「停電灯」なるものを学生たちに作らせたという証言が映画にあ った。 戦争直後、よく停電した時代で、停電時に電気が点く「停電灯」とい うふれこみだったが、つまりは「盗電」で、いくつ売れたか分からないという 話だった。

 ドッジラインにもとづく超均衡予算の実施によって、日本経済は未曽有の不 況に見舞われており、朝鮮戦争を目前とするGHQの占領政策の転換があって、 全国の大学で教職員のレッド・パージが行なわれた時期であった。 教授陣は 最後の1年以上は無給で講義に当たり、三枝博音校長らは「鎌倉アカデミア」 の存続のために奔走したが、朝鮮戦争勃発まもなくの昭和25(1950)年9月 10日、わずか4年半で廃校をせざるを得なくなる。 開校当初、「戦争に反対 していた偉い人たちが先生になる」と受けとめた社会の雰囲気が変わった。 三 枝博音は「鎌倉大学廃校始末記」(『中央公論』昭和26(1951)年2月号)で、 「鎌倉アカデミアは赤い」という風評によって救援の手が延びてこなかった、 と述懐している。 映画では、学生の共産党員は二人しかいなかったと、証言 があった。