ビスマルクが築いた安定、戦争で崩壊2017/06/01 07:17

 5月27日、福澤諭吉協会の総会と記念講演会が交詢社であり、竹森俊平慶應 義塾大学経済学部教授の「福沢諭吉は『日露戦争』をどう受け止めただろうか」 という話を聴いてきた。 竹森俊平教授については『国策民営の罠 原子力政 策に秘められた戦い』(日本経済新聞出版社・2011年10月)を読んで、4月 19日から24日までの当日記に書いたばかりだったので、この講演を楽しみに していた。 言うまでもないけれど、福沢諭吉は1901(明治34)年に死んで いるので、1904(明治37)年~1905(明治38)年の日露戦争は知らない。

 竹森俊平教授はレジメを用意していなかったので、これから書くことは、海 図のない航海のようなものだということを、ご承知願いたい。 さらに竹森教 授は、ワグナーの『指環』すなわち『ニーベルングの指環』を要所で引き合い に出したので、『ニーベルングの指環』を知らない教養不足が露呈して、理解 できないところがあった。

 竹森俊平教授は、ビスマルクの写真を掲げて話を始めた。 ケインズは1919 (大正8)年の第一次世界大戦のパリ講和会議でイギリス代表の一員だったが、 その後著した『平和の経済的帰結』の中で、大戦前は貿易と金融のグローバル 化の絶頂期だった、ロンドンで紅茶を飲みながら、電話で世界中に注文すると 物が届き、投資もできたのに、その素晴らしさは災害のように起こった戦争で 終わってしまった、と述べた。

 通信や運輸の発達、鉄道がなければ、日露戦争は起きなかった。 シベリア 横断鉄道によって、ロシアは地球の半分の距離のところに120万人を集結させ、 日本は90万人を集結させた。 ロシアも、日本も、1897(明治30)年、同時 に金本位制を採用した。 日本は、ロシアとの戦争準備のため、金を借りる必 要があった。 戦艦を造るのに、国際貿易・金融を活用し、一隻はイタリアか らも買っている。 第二次世界大戦の時期には、金本位制の国はどこにもなく、 世界経済はブロック化されていて、戦艦は自前で建造した。

 ケインズが1914(大正3)年まで続いていたと言ったバランス・オブ・パワ ーは、ビスマルクが築いた時代だった。 言わばビスマルキアン・グローバリ ゼーション。 普仏戦争で、1871(明治4)年プロイセンが勝ち、アルザス=ロ レーヌを取り、ドイツ帝国が出来た。 ビスマルクは、1873(明治6)~87(明 治20)年三帝同盟(ロシア、オーストリア、ドイツ)をつくり、フランスの孤 立化を図った。 1891(明治24)~94(明治27)年、露仏同盟できる、諸悪 の根源。

 対ソ封じ込め政策を立案したアメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ビスマ ルクはドイツのナショナリストではなく、皇帝の忠実なサーバントだと言った。  皇帝は帝国の一つのメカニズムだという昔風のモラルを持っていた。 20世紀 になって世界秩序が崩れた。 戦争のスタイルが崩壊し、それは外交の延長の 限定的戦争でなく、相手を徹底的に叩きつぶすようになった。 ドイツをあれ ほど叩かなければ、パワー・バランスを維持できたはずだ。

 そのビスマルクは、明治日本と微妙に関わっていた。(つづく)

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